消えてなくなる訳のものでありませんから、私はまずこれを猿の仕業《しわざ》と鑑定しました。」
「ごもっともです。」
「あなたも御同感ですか。」
「私もそれよりほかに考えはありません。さっきからお話を聞いているうちに、私はドイルの小説を思い出しました。」
「はあ、それはどんなことです。」と、丸山はテーブルの上に肱《ひじ》を押出した。
隅の方の椅子によりかかっている勇造も、眼をかがやかして聞き澄ましていた。
二
「無論に作り話でしょうが、ドイルの小説にはこういうことが書いてあるんです。大西洋のある島の耕作地でやはり人間が紛失する。骨も残らない、血のあともない。よく詮議《せんぎ》してみると、結局それは大きい黒|猩々《しょうじょう》の仕業であったというのです。」と、高谷君は説明した。「今度の事件も余ほどよく似ているようですから、あるいはドイルの小説が事実となって、我れわれの見たこともないような奇怪な猿のたぐいが、夜なかにこの小屋へおそって来て、そっと人間を攫《さら》って行くんじゃありませんかしら。」
「なるほど。」と、丸山もうなずいた。「そこらが好い御鑑定です。ただ少し腑に落ちないのは、もしそんな怪物が来て人間を引っ担いで行くとしたら、なにか声でも立てそうなものだと思うんですが……。すこしでも声を立てれば、そばに寝ている者のうちで誰か眼をさます者もある筈ですが……。」
「ドイルの小説によると、その猿は恐ろしい力で、まず寝ている人間の胸の骨をぐっと押すと、骨は砕けてひと息に死んでしまう。それを易々《やすやす》と担いで行くんだということです。たといひと息に死に切らないものでも、その恐ろしい力で胸を押されて、もう半死半生になった上に、かつて見たこともないような怪物が自分の上にのし掛かっているんですから、大抵のものは異常の恐怖にとらわれて、もう声を出す元気もないだろうと思われます。」と、高谷君は重ねて説明した。
「そうでしょう。しかし……。」と、丸山はまだ疑うように勇造の方を見返った。「我れわれもそう思ったもんですから、毎晩代るがわるに小屋の周囲を見廻って、威嚇《いかく》にピストルを撃ったこともあります。猛獣は火を恐れるというので、所々に焚火をしたこともあります。それでもやっぱり無効でした。現に十二ヵ所も篝火《かがりび》を焚いた晩に、日本人は攫って行かれたんです。」
こうなると、高谷君の議論もよほど影の薄いものになって来た。麻畑へ忍んでくる怪物は、野蛮人でも猿でもないらしかった。その次の問題は蟒蛇《うわばみ》である。うわばみが這《は》い込んで来て、ひと息に呑んでしまうのではないかとも考えたが、蛇も火を恐れる筈である。殊に夜なかに這い出して来るかどうかも疑問であった。鰐《わに》も陸《おか》へあがることがある。あるいは鰐ではないかという説も出たが、ここらの原住民は鰐に就いては非常に神経過敏であるから、その匂いだけでもすぐにそれと覚ることが出来る。原住民は決して鰐ではないと主張している。では大|蜥蜴《とかげ》かという説も出たが、とかげが人を喰おうとは思われない。たとい喰ったとしても、骨も残さずに呑み込んでしまう筈はない。結局それは野蛮人の仕業であろうということになったが、丸山はまだそれを信じないらしかった。
「もしここらの森や山の蔭に、我れわれの知らない野蛮人が棲んでいるとしても、原住民もかつてそんな人間らしいものを認めたことがないというんです。とにかく私も余り残念ですから、ほかの者だけを隣りの島へ泊りにやって、私とこの勇造のふたりだけは毎晩強情にこの小屋に残っているんですが、この二、三日はなんにも怪しい形跡も見えません。敵もこっちの油断を狙って来るらしいんですから、一度いたずらをすると当分はやって来ないようです。そこで、こっちが少し安心すると、その油断を見て不意に襲って来る。いつもその手でやられるのですから、今夜あたりはもう油断ができませんよ。」
高谷君も一種の好奇心にそそられて、自分も今夜はこの小屋に泊って、その怪物の正体を見届けたいと思った。その話をすると、丸山も非常に喜んだ。
「どうかそうしてください。あなたも一緒にいて下されば、我れわれも大いに気丈夫です。あなたの御助力で、どうかこの怪物の正体を確かめたいものです。どうでお構い申すことは出来ませんが、あなたの寝道具《ねどうぐ》ぐらいはありますから。」
「どうで徹夜の考えですから、寝道具などはいりません。夜がふけると冷えるでしょうから、毛布が一枚あれば結構です。しかし私がいつまでも帰らないと、船の者が心配するでしょうから、誰か私の手紙をとどけてくれる者はありますまいか。」
「ええ、雑作《ぞうさ》もありません。」と、丸山は勇造に言付けて、ひとりの原住民を呼ばせた。
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