とより大金であるから、彼は差しあたりの処分にひどく悩んだ。
正直なかれは、この機会に方々の小さい借金を返してしまおうと思った。それでも五両ほどあれば十分であるから、残りの七十五両をどうかしなければならない。床下にうずめて置こうかとも考えたが、ひとり者の出商売《であきない》の彼としては留守のあいだが不安であった。
金を取ったらどう使おうかということは、ふだんから能く考えて置いたのであるが、さてその金を使うまでの処分かたについては、かれもまだ考えていなかったので、今この場にのぞんで俄かに途方にくれた。かれは重いふところを抱えて癪に悩んだ人のようにうめいていたが、やがてあることを思い付いた。彼はすぐにまた飛び出して、町内の左官屋の親方の家へ駈け込んだ。
左官屋の親方はたくさんの出入り場を持っていて工面《くめん》もいい、人間も正直である。同町内であるから、平吉とはふだんから懇意にしている。平吉はそこへ駈け込んで、親方にそのわけを話して、しばらくその金をあずかって貰うことにしたのである。親方は仕事場へ出て留守であったが、女房がこころよく承知して預かってくれた。
「だが、わたしは満足に字が書けないから、いずれ親方が帰って来てから預り証を書いてあげる。それでいいだろうね。」
「へえ、よろしゅうございます。」
重荷をおろしたような、憑物《つきもの》に離れたような心持で、平吉は自分の家へ帰った。しかもかれはまだ落ちついてはいられなかった。かれはすぐにまた飛び出して、近所の時借りなどを返してあるいた。それから下谷まで行って、一番大口の一両一分を払って来た。それでもまだ三両ほどの金をふところにして、かれは帰り路に再び両国の橋番をたずねた。
「平さん。また来たね。」と、おやじは行燈《あんどう》に蝋燭を入れながら声をかけた。
秋の日はもう暮れかかっていた。この時の平吉はもうだんだんに気が落ちついて来たので、あとさきを見廻しながら小声で言った。
「放しうなぎをするよ。」
「いよいよ当ったのかえ。」と、おやじは小声で訊きかえした。
平吉は無言で指一本出してみせると、おやじは眼を丸くして笑った。
「そりゃ結構だ。おめでたい、おめでたい。だが、日が暮れかかったので鰻はもう奥へ片付けてしまった。いっそあしたにしてくれないか。」
「ああ、いいとも……。代《だい》だけ渡しておいて、あしたまた来る。」
言いながら彼は一分金三つをつかんで渡すと、おやじはびっくりしたように透かしてみた。
「こんなに貰っちゃ済まないな。だが、まあ、折角のお福|分《わ》けだ。ありがたく頂戴しておこう。どうぞあした来てください。放しうなぎの惣仕舞は近頃お前ばかりだ。」
礼やらお世辞やらをうしろに聞きながら、平吉はまた急ぎ足で自分の家へ帰った。彼は今になってまだ午飯《ひるめし》を食わないことを初めて思い出したが、これから支度をするのも面倒なのと、ふところには今までに持ったことのない二両あまりの金がまだ残っているのとで、かれはまたあたふたと駈け出して町内のうなぎ屋へ行った。一方に放しうなぎをしていながら、一方には久し振りに蒲焼を食おうと思い立ったのである。近所で顔を見識っていながらも、ついぞ二階へ上がったこともない平吉を不思議そうに案内して来た女中にむかって、彼は小《こ》あらいところを二皿ばかり焼いてくれと注文した。無論に酒も持って来いと言った。
座蒲団のうえに坐って、平吉はがっかりした。彼はけさからちっとも落ちついた心持になれないで、唯せかせかと駈けずり廻っていたのである。からだも心も一度に疲れ果てたようで、彼はもう口を利《き》くのも大儀になった。それでも、酒や鰻が運び出されると、彼はまた元気がついて、女中を相手に笑ったりしゃべったりした。女中に一|朱《しゅ》の祝儀をやった。かれは空腹のところへ無暗に飲んで食って、女中に扶《たす》けられてようように二階を降りたが、もう正体もなく酔いくずれて、足も地につかないほどになっていた。
「平さんはあぶない。すぐ近所だから送っておあげよ。」と、帳場にいる女房が見かねて注意した。
祝儀を貰った義理もあるので、女中はかれの手をひいて表へ出ると、月のひかりは地に落ちて霜のように白かった。路地のなかまで送り込むと、その門口《かどぐち》には一人の女が人待ち顔にたたずんでいた。
あくる朝になって、この長屋じゅうは勿論、町内をもおどろかすような大事件が発覚した。平吉は奥の三畳で何者にか刺し殺されていた。入口の四畳半の長火鉢のまえには、二人の大の男が血を吐いて死んでいた。
平吉はうなぎ屋から酔って帰って、そのまま奥へはいって寝込んでしまったところへ、他のふたりが忍び寄って刺し殺したのである。かれらはそれから家内を探しまわった末に、入口の長火鉢のまえ
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