放し鰻
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)裏店《うらだな》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本所|相生町《あいおいちょう》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)めそっこ[#「めそっこ」に傍点]鰻が
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E君は語る。
本所|相生町《あいおいちょう》の裏店《うらだな》に住む平吉は、物に追われるように息を切って駈けて来た。かれは両国の橋番の小屋へ駈け込んで、かねて見識り越《ご》しの橋番のおやじを呼んで、水を一杯くれと言った。
「どうしなすった。喧嘩でもしなすったかね。」と、橋番の老爺《おやじ》はそこにある水桶の水を汲んでやりながら、少しく眉をひそめて訊いた。
平吉はそれにも答えないで、おやじの手から竹柄杓《たけびしゃく》を引ったくるようにして、ひと息にぐっと飲んだ。そうして、自分の駈けて来た方角を狐のように幾たびか見まわしているのを、橋番のおやじは呆気《あっけ》に取られたようにながめていた。文政末年の秋の日ももう午《ひる》に近づいて、広小路の青物市の呼び声がやがて見世物やおででこ芝居の鳴物《なりもの》に変ろうとする頃で、昼ながらどことなく冷たいような秋風が番小屋の軒の柳を軽くなびかせていた。
「どうかしなすったかえ。」と、おやじは相手の顔をのぞきながら訊いた。
平吉は何か言おうとしてまた躊躇した。かれは無言でそこらにある小桶を指さした。番小屋の店のまえに置いてある盤台風の浅い小桶には、泥鰌《どじょう》かと間違えられそうなめそっこ[#「めそっこ」に傍点]鰻が二、三十匹かさなり合ってのたくっていた。これは橋番が内職にしている放しうなぎで、後生《ごしょう》をねがう人たちは幾らかの銭を払ってその幾匹かを買取って、眼のまえを流れる大川へ放してやるのであった。
「ああ、そうかえ。」と、おやじは急に笑い出した。「じゃあ、お前、当ったね。」
その声があまり大きかったので、平吉はぎょっとしたらしく、あわててまた左右を見廻したかと思うと、その内ぶところをしっかりと抱えるようにして、なんにも言わずに一目散に駈け出した。駈け出したというよりも逃げ出したのである。彼は転《ころ》げるように両国の長い橋を渡って、半分は夢中で相生町の自分の家《うち》へ行き着いた。
ひとり者の彼はふるえる手で入口の
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