平家蟹
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)玉虫《たまむし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|人《にん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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登場人物
官女 玉虫《たまむし》
その妹 玉琴《たまこと》
那須与五郎宗春《なすのよごろうむねはる》
旅僧 雨月《うげつ》
官女 呉羽《くれは》の局《つぼね》
同 綾の局
浜の女房 おしお
那須の家来 弥藤二《やとうじ》
ほかに那須の家来。浜のわらべなど
[#改ページ]
(一)
寿永四年五月、長門国《ながとのくに》壇の浦のゆうぐれ。あたりは一面の砂地にて、所々に磯馴松《そなれまつ》の大樹あり。正面には海をへだてて文字ヶ関遠くみゆ。浪の音、水鳥の声。
(平家没落の後、官女は零落してこの海浜にさまよい、いやしき業《わざ》して世を送るも哀れなり。呉羽の局、綾の局、いずれも三十歳前後にて花のさかりを過ぎたる上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》、磯による藻屑《もくず》を籠に拾う。)
呉羽 のう、綾の局。これほど拾いあつめたら、あす一日の糧《かて》に不足はござるまい。もうそろそろと戻りましょうか。
綾の局 この長の日を立ち暮して、おたがいに苛《いこ》うくたびれました。
呉羽 今更いうも愚痴なれど、ありし雲井のむかしには、夢にも知らなんだ賤《しず》の手業《てわざ》に、命をつなぐ今の身の上。浅ましいとも悲しいとも、云おうようはござらぬのう。
綾の局 まだうら若い上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たちは、泣顔かくす化粧《けわい》して、ゆききの人になさけを売り、とにもかくにも日を送れど、盛りを過ぎし我々は見かえる人もあらばこそ、唯おめおめと暮しては、飢《かつ》えて死なねばなりませぬ。
呉羽 せめて一日でも生きたいと、こうして働いてはいるものの、これがいつまで続こうやら……。(嘆息しつつ空を仰ぐ。)おお、こんなことを云うているひまに、やがて日も暮れまする。
綾の局 ほんに空も陰って来ました。このごろの日和《ひより》くせで、冷たい潮風が吹いて来ると、つづいて雨の来るのが習い。湿《ぬ》れぬうちに戻りましょうか。
呉羽 苫屋《とまや》に雨の漏らぬように、軒のやぶれもつくろうて置かねばなりますまい。
綾の局 召仕いもなき佗び住居は、なにやらかやら心せわしいことでござるのう。
(二人は籠をたずさえてとぼとぼとあゆみ去る。浜のわらべ甲乙丙の三人いず。乙は赤き蟹を糸に縛りて持ったり。)
童乙 どうじゃ。平家蟹《へいけがに》はまだいるかの。
童甲 あいにくに夕潮が一杯じゃ。これでは蟹も上がりそうもないぞ。
童丙 では、あすの朝、潮の干《ひ》た頃に捕りに来ようかのう。
(弥平兵衛宗清、四十余歳、今は仏門に入りて雨月という。旅姿、笠と杖とを持ちていず。)
雨月 これ、これ、平家蟹とは……。どのような蟹じゃな。
童乙 これじゃ。見さっしゃれ。
(蟹を見せる。雨月はじっと視る。)
雨月 この蟹をなぜ平家と云うのか。
童甲 この壇の浦で平家が亡びてから、ついぞ見たことのない、こんな蟹が沢山に寄って来ましたのじゃ。
童乙 蟹の甲には人の顔がみえています。
童丙 これ、このように、おこった顔をしています。
(指さし示せば、雨月はつくづく視て、思わずぞっとする。)
雨月 おお、なるほど蟹の甲にはありありと人の顔……。しかも凄まじい憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》……。平家がここでほろびた後に、このような不思議の蟹が……。
三人 そうじゃ、そうじゃ。
雨月 白きは源氏[#「源氏」は底本では「源民」]……赤きは平家の旗の色……。あかき甲にいかれる顔は……。平家の方々のたましいが、蟹に宿って迷いいずるか。
童甲 じゃによって、平家蟹といいますのじゃ。
(雨月は黙して蟹をながめている。)
雨月 これ、子供よ。浜育ちとはいいながら、無益《むやく》の殺生《せっしょう》はせぬものじゃ。この蟹を海へ放してやれ。その代りにわしがよいものをやりましょうぞ。
童乙 よい物をくださるなら、すぐに放してやりましょう。
雨月 おお、聞き分けのよい児じゃ。その代りには何がよかろうぞ。おお、これがよい。(腰をさぐりて糒《ほしい》を入れたる麻の袋をとり出す。)さあ、これをやる程に、蟹は早う放してやったがよい。
(童は袋より糒をすくい出して見る。)
童乙 これはなんでござるな。
雨月 それは糒というもので、水か湯にひたしてたべるのじゃ。
童乙 ありがとうござりました。
(童は蟹の糸をときて、うしろの海に放ちやる[#「放ちやる」は底本では「放ちゃる」]。)
雨月 この後もあの蟹を捕えてはならぬ。平家のたましいが乗憑《のりうつ》っているからは、どのようなおそろしい祟り[#「祟り」は底本では「崇り」]があろうも知れぬぞ。
三人 あい。あい。
(わらべ等は去る。雨月はあとを見送る。)
雨月 日暮れてあたりに人もなし、忍ぶ身には丁度幸いじゃ。海に沈みし御一門の尊霊に、よそながら御回向《ごえこう》申そうか。
(雨月は浜辺にひざまずき、数珠《じゅず》を繰りつつ、海にむかって回向す。官女玉虫、廿歳[#「廿歳」は底本では「甘歳」]、下髪《さげがみ》、被衣《かつき》をかぶりて出で、松の木かげに立ちて窺いいるうちに、雨月は回向を終りて起たんとす。)
玉虫 あ、もし……。
(雨月はたちどまりてすかし視る。)
雨月 どなたでござりまするな。
玉虫 おお、宗清殿……。わらわじゃ。玉虫じゃ。
(近寄りて被衣を取る。かくと見るより雨月は再び土にひざまずく。)
雨月 いかにも弥平兵衛宗清《やへいびょうえむねきよ》、不思議なところでお目にかかりました。
玉虫 なんの不思議なことがあろう。ここは平家が沈んだ海じゃ。平家にゆかりある者は、ここを去ってどこへ行こうぞ。見ればお身はさまを替えて、仏の御《み》弟子となったよな。
雨月 平家没落の後、甥の景清にいざなわれ、肥後の山家《やまが》にかくれて居りましたが、亡き方々の菩提をとむらう為め、御覧の通りにさまをかえて、今は世をすて武士を捨て、ただ阿弥陀仏を念じながら、諸国をめぐって居りまする。
玉虫 さりとは殊勝《しゅしょう》なことじゃ。(嘲るごとくに打笑む。)して、景清はなんとした。
雨月 かれは思い立ったることありとて、わたくしが頻りに止むるもきかず、鎌倉へ忍んでくだりました。
玉虫 むむ、鎌倉へ……。家重代という痣丸《あざまる》の銘刀を身につけて行ったであろうな。
雨月 おおかた左様でござりましょう。
玉虫 さすがは景清、あっぱれの者じゃ。その痣丸に源氏の血を……。大方そうであろうの。
雨月 そのように申して居りました。
玉虫 (心地よげにうなずく。)聞くもなかなかに勇ましい。たとい景清ならずとも、武士たるものにはそれほどの覚悟が無うてはなるまい。のう、宗清。過ぎし弥生《やよい》の廿四日[#「廿四日」は底本では「甘四日」]、平家の一門はことごとくこの海に沈んだ。きのうきょうとは思えども、数うれば早やふた月を過ぎて、きょうはあたかも御命日じゃぞ。あれ、あの向うに……松林の薄黒う見ゆるは……文字ヶ関から大里《だいり》の浜、あれをうしろにして味方の兵船《ひょうせん》はおよそ五百艘、さながら大鳥がつばさをひろげたように、左右に開いて陣取っていたのじゃ。
雨月 今わたくしが踏んでいる浜辺には、源氏の大軍が真黒にたむろして居りました。まして海の上には兵船およそ三千艘、すくなくも味方の五六倍はあったと覚えまする。それが一度に漕ぎよせて来る。なにを申すも多勢《たぜい》に無勢《ぶせい》……。(嘆息する。)わずか一日のいくさで……。思えば果敢《はか》ないことでござりました。
玉虫 とは云え、平家は最期まで勇ましゅう闘うたぞ。打物は折れ、矢種はつき、船はくだけ、人は沈んで果つるまで、一|人《にん》も卑怯に降参するものなく、口々にかたきを呪うて死んだ。(恨みの眉をあげる。)お身はまだ知るまいが、あめ風あれて浪高い夜には、海に数しれぬ鬼火《おにび》あらわれ、あまたの人の泣く声も悲しげにきこゆるぞ。海にほろびたる平家の一門、かばねは千尋《ちひろ》の底に葬られても、たましいは此世にとどまって、百年も千年も尽きぬ恨みをくり返すのであろうよ。
雨月 繋念《けねん》五百|生《しょう》、一念無量劫とは申しながら、罪ふかいは修羅《しゅら》の妄念でござりまする。とは云え、世になき人の執念は、法華経の功力《くりき》によって、成仏《じょうぶつ》解脱《げだつ》のすべもあれど、容易に度しがたいは、世にある人の執念……。甥の景清にも一切の執着《しゅうちく》を去って、復讐の企てなど思い切りまするよう、いくたびか意見申したれど……。
玉虫 景清は肯《き》かなんだか。おお、そうであろう。そのようななま悟りの説法めいたことは、わらわとても肯くまいぞ。
雨月 では、お前さまも……。
玉虫 わらわも源氏を呪うているのじゃ。
雨月 源氏を呪うて……。
玉虫 なにを驚くことがあろう。煩悩もあり、執着もあればこそ、人はこの世に生きているのじゃ。執念は人の命じゃ。一切の煩悩や執着を捨つるほどなら、冷たい土の下に眠っているがましであろう。
雨月 憚りながら、それは凡夫の迷い……。
玉虫 はて、くどう云やるな。お身とわらわとは心が違うぞ。
(細雨《こさめ》ふりいず、玉虫は空を仰ぐ。)
玉虫 五月《さつき》の習い、また雨となったか。これ、宗清、お身は行手をいそぐ身でもあるまい。こよいは一と夜逗留し、晴れ間を待って出立しや。
雨月 して、おまえ様のお住居は……。
玉虫 この浜づたいに五六町……。あれ、あの一本松が目じるしじゃ。
雨月 では、先帝のみささぎに参拝して、それからおたずね申しまする。
玉虫 強くふらぬ間に戻って来や。
(玉虫わかれて去る。雨月は見送る。)
雨月 さらでも女子《おなご》は罪ふかいと聞いたるに、源氏を呪詛《のろい》の調伏《ちょうぶく》のと、執念《しゅうね》く思いつめられたは、あまりと云えばおそろしい。今宵逗留せよと云われたを幸い、今一度あなたのお目にかかって、迷いの雲霧《くもぎり》の霽《は》るるように、御意見申すが法師の務めじゃ。(思案して)まずその前に御陵に参拝いたそうか。
(浪の音高くきこゆ。)
雨月 おお、日暮れて浪が高うなった。空は暗し、雨はふる……。鬼火の迷いいずるというは、今宵のような夜であろう。南無阿弥陀仏、なむ阿弥陀仏。
(海にむかいて再び合掌す。那須の家来二人うかがいいず。)
家来甲 怪しい旅僧……。
家来乙 むむ。
(二人走りかかって捕えんとす。)
雨月 なにゆえの狼籍……。愚僧決して怪しいものではござらぬ。
家来甲 ええ、海にむかって回向するは……。
家来乙 まさしく平家にゆかりの者じゃ。
(二人は無理に引立てんとするを、雨月はゆかじと争いて、遂に二人を投げ倒す。二人はかなわじと見て逃げ去る。雨月は法衣の塵をはらいて、にが笑い。)
雨月 一旦仏門に入ったるからは、むかしの武士は捨てた筈じゃに、われを忘れて荒気の振舞。法衣《ころも》の手前も面目ない。悟るというはむずかしいもののう。
(二)
浦の苫屋、二重屋体にて竹縁朽ちたり。正面の上のかたは板羽目にて、上に祭壇を設け、注連《しめ》を張れり。中央の出入り口にはやぶれたる簾《すだれ》を垂れたり。下の方もおなじく板羽目。庭前の下のかたに丸太の門口、蠣殻《かきがら》の附きたる垣を結えり。垣のそとには松の大樹ありて、うしろには壇の浦の海近くみゆ。
(浜の女房おしお、さざえの殻の燈台に火をともしつつ独り言。)
おしお やがてもう暮れる[#「暮れる」は底本では「幕れる」]というに、姉妹《きょうだ
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