ぞ。
(細雨《こさめ》ふりいず、玉虫は空を仰ぐ。)
玉虫 五月《さつき》の習い、また雨となったか。これ、宗清、お身は行手をいそぐ身でもあるまい。こよいは一と夜逗留し、晴れ間を待って出立しや。
雨月 して、おまえ様のお住居は……。
玉虫 この浜づたいに五六町……。あれ、あの一本松が目じるしじゃ。
雨月 では、先帝のみささぎに参拝して、それからおたずね申しまする。
玉虫 強くふらぬ間に戻って来や。
(玉虫わかれて去る。雨月は見送る。)
雨月 さらでも女子《おなご》は罪ふかいと聞いたるに、源氏を呪詛《のろい》の調伏《ちょうぶく》のと、執念《しゅうね》く思いつめられたは、あまりと云えばおそろしい。今宵逗留せよと云われたを幸い、今一度あなたのお目にかかって、迷いの雲霧《くもぎり》の霽《は》るるように、御意見申すが法師の務めじゃ。(思案して)まずその前に御陵に参拝いたそうか。
(浪の音高くきこゆ。)
雨月 おお、日暮れて浪が高うなった。空は暗し、雨はふる……。鬼火の迷いいずるというは、今宵のような夜であろう。南無阿弥陀仏、なむ阿弥陀仏。
(海にむかいて再び合掌す。那須の家来二人うかがいいず。)
家来甲 怪しい旅僧……。
家来乙 むむ。
(二人走りかかって捕えんとす。)
雨月 なにゆえの狼籍……。愚僧決して怪しいものではござらぬ。
家来甲 ええ、海にむかって回向するは……。
家来乙 まさしく平家にゆかりの者じゃ。
(二人は無理に引立てんとするを、雨月はゆかじと争いて、遂に二人を投げ倒す。二人はかなわじと見て逃げ去る。雨月は法衣の塵をはらいて、にが笑い。)
雨月 一旦仏門に入ったるからは、むかしの武士は捨てた筈じゃに、われを忘れて荒気の振舞。法衣《ころも》の手前も面目ない。悟るというはむずかしいもののう。
(二)
浦の苫屋、二重屋体にて竹縁朽ちたり。正面の上のかたは板羽目にて、上に祭壇を設け、注連《しめ》を張れり。中央の出入り口にはやぶれたる簾《すだれ》を垂れたり。下の方もおなじく板羽目。庭前の下のかたに丸太の門口、蠣殻《かきがら》の附きたる垣を結えり。垣のそとには松の大樹ありて、うしろには壇の浦の海近くみゆ。
(浜の女房おしお、さざえの殻の燈台に火をともしつつ独り言。)
おしお やがてもう暮れる[#「暮れる」は底本では「幕れる」]というに、姉妹《きょうだい》の方々は何をしてござるのやら……。このごろの日和《ひより》くせで、又降って来たようじゃが……。
(雨すこしく降る。玉虫帰りきたる。)
玉虫 今戻りました。
おしお おお、お帰りなされましたか。あいにく降ってまいったので、さぞお困りでござりましょう。
玉虫 降りみ降らずみはこの頃の習い、さしたる雨でもござりませぬ。(ぬれたる被衣をぬぎて縁に上がる。)いつもいつも留守を頼み、ありがとうござりました。して、妹《いもと》はまだ戻りませぬか。
おしお まだお帰りにはなりませぬ。
玉虫 このごろは兎角にそわそわしておちつかず、内を外にして出あるいているは、どうしたことであろうかのう。
(眉をひそむれば、おしおは打笑う。)
おしお それも生業《なりわい》じゃ、是非もござりますまい。
玉虫 生業とは……。
おしお え。(口ごもる。)
玉虫 妹がどのような生業をして居りまするぞ。
おしお さあ、うっかりと口をすべらしたはわたくしのあやまり、どうぞ御勘弁くださりませ。
玉虫 いや、詫びることはない、あからさまに云うて下さればよいのじゃ。
(玉虫の妹玉琴、十七八歳、被衣をかぶりて下のかたより出で、門《かど》に立ちて内の問答をぬすみ聞く。玉虫はおしおの返答なきに、すこしく思案する。)
玉虫 おしおどの、包まずに云うてくだされ。平家ほろびし後は官女達もちりぢりばらばら、ここらあたりにさまようて、あるに甲斐なく世を送る。そのなかには恥を忍んで、のぼり下だりの旅人や、出船入船の商人《あきうど》を相手に、色をあきなうもあると聞く。妹ももしや其のような…。
おしお さあ。
玉虫 これ、しかと返事をして下されぬか。
(迫り問うに、おしおいよいよ迷惑す。玉琴は門をあけて走り入る。)
玉琴 姉《あね》さま……ゆるして下さりませ。
玉虫 むむ。さては推量にたがわず、姉に隠していつの間にか、遊女や白拍子のながれを汲み、色をあきなう身となったか。
玉琴 そのお叱りはとくより知っていれど、むかしに変る今の身の上、唯うかうかとしていては姉妹《きょうだい》ふたりが何となりましょうぞ。飢《かつ》えて死ぬる場になっては、恥も外聞も厭わばこそ、其日その日の糧《かて》がほしさに……。
おしお おお、それもごもっとも、みやこ育ちのおまえ様がたが、ここらの浜辺に流浪なされては、ほかに世渡りのすべもなし、御容貌《ごきりょう》の
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