がとうござりました。
(童は蟹の糸をときて、うしろの海に放ちやる[#「放ちやる」は底本では「放ちゃる」]。)
雨月 この後もあの蟹を捕えてはならぬ。平家のたましいが乗憑《のりうつ》っているからは、どのようなおそろしい祟り[#「祟り」は底本では「崇り」]があろうも知れぬぞ。
三人 あい。あい。
(わらべ等は去る。雨月はあとを見送る。)
雨月 日暮れてあたりに人もなし、忍ぶ身には丁度幸いじゃ。海に沈みし御一門の尊霊に、よそながら御回向《ごえこう》申そうか。
(雨月は浜辺にひざまずき、数珠《じゅず》を繰りつつ、海にむかって回向す。官女玉虫、廿歳[#「廿歳」は底本では「甘歳」]、下髪《さげがみ》、被衣《かつき》をかぶりて出で、松の木かげに立ちて窺いいるうちに、雨月は回向を終りて起たんとす。)
玉虫 あ、もし……。
(雨月はたちどまりてすかし視る。)
雨月 どなたでござりまするな。
玉虫 おお、宗清殿……。わらわじゃ。玉虫じゃ。
(近寄りて被衣を取る。かくと見るより雨月は再び土にひざまずく。)
雨月 いかにも弥平兵衛宗清《やへいびょうえむねきよ》、不思議なところでお目にかかりました。
玉虫 なんの不思議なことがあろう。ここは平家が沈んだ海じゃ。平家にゆかりある者は、ここを去ってどこへ行こうぞ。見ればお身はさまを替えて、仏の御《み》弟子となったよな。
雨月 平家没落の後、甥の景清にいざなわれ、肥後の山家《やまが》にかくれて居りましたが、亡き方々の菩提をとむらう為め、御覧の通りにさまをかえて、今は世をすて武士を捨て、ただ阿弥陀仏を念じながら、諸国をめぐって居りまする。
玉虫 さりとは殊勝《しゅしょう》なことじゃ。(嘲るごとくに打笑む。)して、景清はなんとした。
雨月 かれは思い立ったることありとて、わたくしが頻りに止むるもきかず、鎌倉へ忍んでくだりました。
玉虫 むむ、鎌倉へ……。家重代という痣丸《あざまる》の銘刀を身につけて行ったであろうな。
雨月 おおかた左様でござりましょう。
玉虫 さすがは景清、あっぱれの者じゃ。その痣丸に源氏の血を……。大方そうであろうの。
雨月 そのように申して居りました。
玉虫 (心地よげにうなずく。)聞くもなかなかに勇ましい。たとい景清ならずとも、武士たるものにはそれほどの覚悟が無うてはなるまい。のう、宗清。過ぎし弥生《やよい》の廿四日[#「廿四日」は底本では「甘四日」]、平家の一門はことごとくこの海に沈んだ。きのうきょうとは思えども、数うれば早やふた月を過ぎて、きょうはあたかも御命日じゃぞ。あれ、あの向うに……松林の薄黒う見ゆるは……文字ヶ関から大里《だいり》の浜、あれをうしろにして味方の兵船《ひょうせん》はおよそ五百艘、さながら大鳥がつばさをひろげたように、左右に開いて陣取っていたのじゃ。
雨月 今わたくしが踏んでいる浜辺には、源氏の大軍が真黒にたむろして居りました。まして海の上には兵船およそ三千艘、すくなくも味方の五六倍はあったと覚えまする。それが一度に漕ぎよせて来る。なにを申すも多勢《たぜい》に無勢《ぶせい》……。(嘆息する。)わずか一日のいくさで……。思えば果敢《はか》ないことでござりました。
玉虫 とは云え、平家は最期まで勇ましゅう闘うたぞ。打物は折れ、矢種はつき、船はくだけ、人は沈んで果つるまで、一|人《にん》も卑怯に降参するものなく、口々にかたきを呪うて死んだ。(恨みの眉をあげる。)お身はまだ知るまいが、あめ風あれて浪高い夜には、海に数しれぬ鬼火《おにび》あらわれ、あまたの人の泣く声も悲しげにきこゆるぞ。海にほろびたる平家の一門、かばねは千尋《ちひろ》の底に葬られても、たましいは此世にとどまって、百年も千年も尽きぬ恨みをくり返すのであろうよ。
雨月 繋念《けねん》五百|生《しょう》、一念無量劫とは申しながら、罪ふかいは修羅《しゅら》の妄念でござりまする。とは云え、世になき人の執念は、法華経の功力《くりき》によって、成仏《じょうぶつ》解脱《げだつ》のすべもあれど、容易に度しがたいは、世にある人の執念……。甥の景清にも一切の執着《しゅうちく》を去って、復讐の企てなど思い切りまするよう、いくたびか意見申したれど……。
玉虫 景清は肯《き》かなんだか。おお、そうであろう。そのようななま悟りの説法めいたことは、わらわとても肯くまいぞ。
雨月 では、お前さまも……。
玉虫 わらわも源氏を呪うているのじゃ。
雨月 源氏を呪うて……。
玉虫 なにを驚くことがあろう。煩悩もあり、執着もあればこそ、人はこの世に生きているのじゃ。執念は人の命じゃ。一切の煩悩や執着を捨つるほどなら、冷たい土の下に眠っているがましであろう。
雨月 憚りながら、それは凡夫の迷い……。
玉虫 はて、くどう云やるな。お身とわらわとは心が違う
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