でござろう。平家没落の後は、ゆかりの人々も寄辺《よるべ》をうしない、それの姫君、なにがしの女房と呼ばるる、やんごと無き上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]達もおちぶれて、たよりなきままに恥を忍び、浮川竹《うきかわたけ》の憂きに沈めて、傾城《けいせい》遊女の群れにも入りたもう。さりとはいたわしき限りよと、あわれを覚えしが恋の初め、はからずもこの玉琴殿と、浅からぬ縁《えにし》をむすび申した。
玉虫 むむ、それゆえに妹《いもと》をくれいと云わるるか。一旦縁を切ったる妹、わらわがとこう云うべき筋はござらぬ。勝手に連れて行かれたがよかろう。
(玉琴も進みいず。)
玉琴 さあ、それに就いてお願いがござりまする。これまでお目をかすめた罪は、いくえにもお詫びを申しますれば……。
玉虫 勘当をゆるせと云やるか。
玉琴 与五郎どのは今宵かぎり、俄かにここを引揚げて、本国の那須へ帰られまする。わらわも共に連れて行こうというありがたいおことば。就いては勘当のおわびを願い、おまえも共々に関東へ……。
玉虫 え、わらわも共に関東へ……。那須へ一緒にゆけと云やるか。
玉琴 わが身ばかり出世して、お前をすてて行かれましょうか。
与五郎 共々にお越し下さらば、それがしに取っても義理の姉上、決して疎略には存じ申さぬ。玉琴が切《せつ》なる願い、なにとぞ勘当をゆるされて、われわれと共に本国にくだり、安らけく世を送られい。那須は草ふかき村里なれど、歌によむ白河の関にも遠からず、那須野が原には殺生石《せっしょうせき》の旧蹟もござる。二荒《ふたら》の宮には春の桜、塩原の温泉《いでゆ》には秋のもみじ、四季とりどりの眺めにも事欠かず、よろずに御不自由はござりませぬ。
玉虫 御芳志は千万かたじけない。ついては玉琴。まずそなたに問いたいことがある。もしわらわが飽くまでも不承知と云うたら、そなたはどうしやるぞ。
玉琴 さあ。
玉虫 わらわを捨てても、与五郎どのと一緒にゆくであろうな。
(玉琴黙して答えず。玉虫はうなずく。)
玉虫 返事のないは、大方そうであろうの。よい、よい。それほどまでに思い合うた二人が仲を今更ひき裂くこともなるまい。わらわが許して女夫《めおと》にしましょうぞ。
玉琴 え。では、勘当をお赦しあって……。
玉虫 姉が媒酌《なかだち》して杯をさせましょう。
玉琴 ありがとうござりまする。
玉虫 まあ、しばらく待ちゃ。
(玉虫は起って、再び奥に入る。与五郎と玉琴は顔を見あわせる。)
玉琴 ここへ引返して来るみちみちも、どうあろうかと案じていたに、姉さまの御機嫌も思いのほかに早う直って、こんな嬉しいことはござりませぬ。
与五郎 しいてとやこう申されたら、それがしも刀の手前、われから姉妹の縁切って、そなたを連れ帰ろうと存じたるに、玉虫殿のこころも早う解けて、われも満足。祝言は追ってのこととは思えども、今この場合、姉御の詞《ことば》にさかろうもいかが。兎も角もここで杯しようぞ。
玉琴 どうぞそうして下さりませ。
与五郎 そなたの頼みじゃ、なんなりともきこうよ。
玉琴 あい。世にたよりない我々姉妹、この末ともにかならず見捨てて下さりまするな。
与五郎 坂東武者は弓矢ばかりか、なさけにかけても意地は強い。一度誓いしことばの末は、尽未来《じんみらい》まで変るまいぞ。
玉琴 おお。
(与五郎の手をとって押しいただく、奥より玉虫は三方《さんぽう》と土器《かわらけ》を持ちていず。)
玉虫 世にありし昔ならば、かずかずの儀式もあるべきに、花やもみじの色もなき浦の苫屋のわび住居。心ばかりの三三九度じゃ。
(三方を両人のあいだに据うれば、両人は形をあらためて一礼す。玉虫は更に祭壇より神酒を入れたる甕《かめ》を取りおろし、うやうやしく押しいただきて、しばしは口のうちにて何事をか念ず。)
玉虫 女子《おなご》ばかり住む家に、酒のたくわえは無けれども、幸いにここに神酒《みき》がある。めでたい折柄にはふさわしかろう。さかずきは女子から……。
玉琴 あい。
(玉琴はまず土器を取り、玉虫は酌に立つ。つづいて与五郎も飲む。かたのごとくに杯のやりとりあり。)
玉虫 おお、これでめでとう祝儀も済んだ。これからは色なおしに、わらわが一とさし舞いましょう。
(玉虫は檜扇を持ちて起ちあがり、はじめはしずかに舞う。)
唄※[#歌記号、1−3−28]世は治まりて、西海の浪しずかなり、岸の姫松はみどりの枝をかわして、沖にあそぶ鴎《かもめ》の影白し。見渡すかぎり、山も海も遠く連なりて、画くがごとき眺めかな。
(このあたりより舞はようやく急なり。)
唄※[#歌記号、1−3−28]ときに不思議や、一天にわかに掻きくもり、潮《うしお》はどうどうと怒り立ち、百千の悪鬼|羅刹《らせつ》は海の底よりあらわれたり
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