那須のおむかいと聞いたらば、泣顔が急に笑顔となって、早々に出てゆかれた。あれでは姉様の勘当をうけるも無理はない。おお、鐘がきこえる。今が逢魔《おうま》が時というのじゃ。どれ、早う戻りましょう。
(おしおはつぶやきつつ去る。雨の音さびしく、奥より玉虫は以前とかわりし白の着附、緋の袴、小袿《こうちき》にて、檀扇《ひおうぎ》を持ちていず。遠寺の鐘の声きこゆ。玉虫は鐘の音を指折りかぞえて独り語。)
玉虫 今鳴る鐘は酉《とり》の刻……。平家の方々が見ゆるころじゃ。
(縁に出でてあたりを視る。垣のかげより大いなる平家蟹這いいず。)
玉虫 おお、新中納言殿……。こよいも時刻をたがえずに、ようぞまいられた。これへ……これへ……。(檜扇にてさしまねけば、蟹は縁の下へ這い寄る。)余の方々はなんとされた。つねよりも遅いことじゃ。
(上のかたの木かげよりも、おなじく平家蟹あらわる。)
玉虫 おお、能登どのか。今宵は知盛の卿に先を越されましたぞ。(打笑む。)
(左右よりつづいて二三匹、四五匹の蟹あらわれいず。)
玉虫 おお、教盛《のりもり》の卿、行盛の卿……。有盛、経盛、業盛《なりもり》の方々……。みな打揃うて見えられましたの。(縁に腰をかける。蟹はその足もとにむらがり寄る。)このごろの短か夜とは云いながら、あすの朝まではまだまだ長い。今宵はなにを語って明かしましょうぞ。(蟹にむかって問い、又うなずく。)毎夜毎夜の物語も、つまるところは平家の恨みじゃ。この恨みは一年二年、五年十年語りつづけても、容易に尽きることではあるまい。(蟹を見て、ひとりうなずく。)そうじゃ、そうじゃ。源氏が栄えてあるかぎりは、平家の恨みは消え失せまい。おお、それで思い出した。最前浜辺で宗清にゆき逢い、その物語によるときは、景清は姿をかえて鎌倉にくだり、家重代の痣丸に源氏の血を染めるとのことでござりまするぞ。ほほ、勇ましい覚悟ではござりませぬか。万一、景清が仕損じても、平家一門の呪詛《のろい》によって、源氏のゆくすえも大方は知れて居りまする。(云いかけて、又うなずく。)おお、云うまでもござらぬ。まず当のかたきの義経をほろぼして、次は範頼……次は頼朝……。おお、まだある。頼朝には頼家という小倅があるとやら……これも、助けては置かれぬ奴、勿論呪い殺しまする。その弟《おとと》も……又その子も……その孫も……。二代三代四代の末までも執念く祟って[#「祟って」は底本では「崇って」]、かりにも源氏の血をひくやからは、男も女も根絶しにして見せましょうぞ。
(云う声はしだいにうわ嗄《が》れて、鬢髪《びんぱつ》そよぎ、顔色すさまじ、下の方の木かげより以前の雨月忍び出で、息をのんで内の様子を窺う。玉虫はかくとも知らず、更に祭壇のかたを指さす。)
玉虫 あれ、見られい。唐《から》天竺日本にあらとあらゆる阿修羅の眷族《けんぞく》を、一つところに封じ籠めて、夜な夜なかたきを呪うて居りまするぞ。やがてその奇特《きどく》を……。
(この時、俄かに風ふき来たりて、燈台の火ふっと消ゆ。闇のなかにて玉虫の声。)
玉虫 おお、源氏の運も風の前のともしびじゃ。忽ちこのように消ゆるであろうぞ。ほほほほ。
(向うより那須与五郎宗春、二十歳、烏帽子、直垂《ひたたれ》にて蓑をつけ、松明《たいまつ》を持ち、あとより玉琴も蓑をつけ、附添うていず。この火のひかりを望みて、玉虫は起って奥に入り、雨月も木かげに身をひそむ。平家蟹もすべて消ゆ。与五郎等は門《かど》に来たりて、内をうかがう。)
与五郎 はて、不思議や。家の内は真の闇じゃ。
玉琴 姉様はどこへお出でなされたか。まずともかくもお通りなされませ。
与五郎 むむ。
(両人は内に入りて、あたりを照し視る。)
与五郎 おお、燈台はあれにある。燈火《あかし》をつけられい。
玉琴 心得ました。
(両人は蓑をぬぎ、玉琴は縁にあがりて、松明の火を燈台に移す。与五郎はその松明を打消して、おなじく縁にあがり、両人座を占める。)
与五郎 姉御はいずかたへ参られたであろうな。
玉琴 さあ、近所へ物買いにゆかれたか。但しは奥に……。(起って奥をうかがう。)奥も暗がりでよくは見えぬ。もし、姉様……姉上様……。
玉虫 そういうは誰じゃ。わらわはこれに居りまする。
(玉虫は小袿をぬぎ、白小袖、緋の袴にて、奥よりいず。)
玉琴 おお、姉様……。それにおいでなされましたか。
玉虫 又しても姉という。そなたとは、すでに縁切っているのじゃ。
(云いつつ悠然と座に直る。与五郎は一と膝すすめて会釈す。)
与五郎 姉上には初めて御意得申す。それがしは下野《しもつけ》の国の住人、那須与市宗隆の弟《おとと》、同苗与五郎宗春。
玉虫 その与五郎どのが何用あってここへはまいられた。
与五郎 妹御を所望にまいった。仔細はおおかた御存じ
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