父の墓
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蒼茫《そうぼう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)胸|先《ま》ず

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はらはら[#「はらはら」に傍点]
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 都は花落ちて、春漸く暮れなんとする四月二十日、森青く雲青く草青く、見渡すかぎり蒼茫《そうぼう》たる青山の共同墓地に入《い》りて、わか葉《ば》の扇骨木籬《かなめがき》まだ新らしく、墓標の墨の痕《あと》乾きもあえぬ父の墓前に跪《ひざまず》きぬ。父はこの月の七日《なぬか》、春雨さむき朝《あした》、逝水《せいすい》落花のあわれを示し給いて、おなじく九日の曇れる朝、季叔《すえのおじ》の墓碑と相隣れる処《ところ》を長《とこしな》えに住むべき家と定め給《たま》いつ。数うれば早し、きょうはその二七日《ふたなぬか》なり。
 初七日《しょなぬか》に詣《もう》でし折には、半《なかば》破《や》れたる白張《しらはり》の提灯《ちょうちん》さびしく立ちて、生花《いけばな》の桜の色なく萎《しぼ》めるを見たりしが、それもこれも今日は残《のこり》なく取捨られつ、ただ白木の位牌と香炉のみありのままに据えてあり。この位牌は過ぎし九日送葬の朝、わが痩せたる手に捧げ来りてここに置据《おきす》えたるもの、今や重ねてこれを見て我はそも何とかいわん、胸|先《ま》ず塞《ふさ》がりて墓標の前に跼《うずく》まれば、父が世に在《あ》りし頃親しく往来《ゆきかい》せし二、三の人、きょうも我より先に詣で来りて、山吹の黄なる一枝を手向《たむ》けて去りたる所志《こころざし》しみじみ嬉しく、われも携え来りし紫の草花に水と涙をそそぎて捧げぬ。きのうの春雨の名残《なごり》にや、父の墓標も濡れて在《おわ》しき。
 父は五人兄弟の第三人にして、前後四人は已《すで》に世を去りぬ、随って我も四人の叔《おじ》を失いぬ。第一の叔は遠く奥州の雪ふかき山に埋《うず》まれ給いしかば、その当時まだ幼稚《いとけな》き我は送葬の列に加わらざりしも、他の三人の叔は後《おく》れ先《さきだ》ちて、いずれもこの青山の草露《そうろ》しげき塚の主《ぬし》となり給いつ、その間に一人《いちにん》の叔母と一人の姪をも併《あわ》せてここに葬りたれば、われは実に前後五|度《たび》、泣いてこの墓地へ柩《ひつぎ》を送り来りしなり。人生漸く半《なかば》を過ぎたるに、已に四人の叔に離れ、更に一人の叔母と姪を失いぬ。仏氏《ぶっし》のいわゆる生者《しょうじゃ》必滅《ひつめつ》の道理、今更おどろくは愚痴に似たれど、夜雨《やう》孤灯《ことう》の下《もと》、飜って半生|幾多《いくた》の不幸を数え来れば、おのずから心細くうら寂しく、世に頼《たより》なく思わるる折もありき。されど、わが家には幸に老《おい》たる父母ありて存すれば、これに依って立ち、これに依って我意を強うしたるに、測らざりき今またその父に捨てられて、闇夜に灯火《ともしび》を失うの愁《うれい》を来《きた》さむとは。悲《かなし》い哉《かな》。
 風樹《ふうじゅ》の嘆は何人といえども免れ難からんも、就中《なかんずく》われに於て最も多し。父は一度われをして医師たらしめんと謀《はか》りしが、思う所ありてこれを廃し、更に書を学ばしめたるも成らず、更に画を学ばしめたるもまた成らず、果《はて》は匙を投げて我が心の向う所に任せぬ。かくて我は何の学ぶ所もなく、何の能もなく、名もなく家もなく、瓢然《ひょうぜん》たる一種の道楽息子と成果てつ、家に在《あっ》ては父母を養うの資力なく、世に立《たっ》ては父母を顕《あら》わすの名声なし、思えば我は実に不幸の子なりき。泉下《せんか》の父よ、幸に我を容《ゆる》せと、地に伏して瞑目合掌すること多時、頭《かしら》をあぐれば一縷《いちる》の線香は消えて灰となりぬ。
 低徊|去《い》るに忍びず、墓門に立尽して見るともなしに見渡せば、其処《そこ》ここに散《ちり》のこる遅桜《おそざくら》の青葉がくれに白きも寂しく、あなたの草原には野を焼く烟《けむり》のかげ、おぼろおぼろに低く這《は》い高く迷いて、近き碑を包み遠き雲を掠《かす》めつ、その蒼《あお》く白き烟の末に渋谷、代々木、角筈《つのはず》の森は静に眠りて、暮るるを惜む春の日も漸くその樹梢《こずえ》に低く懸れば、黄昏《たそがれ》ちかき野山は夕靄《ゆうもや》にかくれて次第にほの闇《くら》く蒼黒く、何処《いずく》よりとも知れぬ蛙《かわず》の声|断続《きれぎれ》に聞えて、さびしき墓地の春のゆうぐれ、最《いと》ど静に寂しく暮れてゆく。
 思い出《い》ずれば古年《こぞ》の霜月の末、姉の児《こ》の柩《ひつぎ》を送りてここへ来りし日は、枯野に吠ゆる冬の風すさまじく、大粒の霰はらはら[#「はらはら
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