っても旗本屋敷であるから、上《かみ》便所までゆくには長い縁側を通らなければならなかった。母は手燭も持たずに行くと、その帰り路に縁側のまん中あたりで、何かに摺れ違ったように感じた。暗い中であるから判らなかったが、なんだか女の髪にでも触れたように思われた。それと同時に、母は冷や水でも浴びせられたようにぞっとした。勿論、それだけのことで、ほかには何事もなかった。
又、ある晩、庭さきで犬の吠える声がしきりにきこえた。あまりにそうぞうしいので、雨戸をあけてみると、隣家に住んでいる英国公使館の書記官マクラッチという人の飼犬が、わたしの家の庭にはいって来て無暗に吠えたけっているのであった。二月のことでまだ寒いような月のひかりが隈なく照り渡っていたが、そこには何の影もみえなかった。もしや賊でも忍び込んだのかと、念のために家内や庭内を詮索したが、どこにもそんな形跡は見いだされなかった。犬は夜のあけるまで吠えつづけているので、わたしの家でも迷惑した。
あくる日、父がマクラッチ氏にその話をすると、同氏はひどく気の毒がっていた。しかし眉をひそめてこんなことを言った。
「わたくしの犬はなかなか利口な筈ですが
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