言うまでもなかった。古河市五郎は療治《りょうじ》が届かないで、三月末に死んだ。四月になっても、多々良村では海馬の噂がまだやまない。こうなると、城内でももう捨て置かれなくなって、かの弥次兵衛のいう通り、他領への聞えもあれば、領内の住民らの思惑もある。かたがたかの怪しい馬を狩り取れということになって、屈竟の侍が八十人、鉄砲組の足軽五十人、それぞれが五組に分れて、四月十二日の夜に大仕掛けの馬狩りをはじめた。先夜の七人も皆それぞれの部署についた。
 四月に入ってから雨もよいの日が続いたのは、月夜を嫌う馬狩りのためには仕合せであった。しかし第一夜は何物をも見いだし得なかった。第二夜もおなじく不成功のうちに明けた。第三夜の十四日の夜も亥《い》の刻(午後十時)を過ぎた頃に、第四組が多々良川のほとりで初めて物の影を認めた。合図の呼子笛《よびこ》の声、たいまつの光り、それが一度にみだれ合って、すべての組々も皆ここに駈け集まった。神原茂左衛門は第五の組であったが、場所が近かったために早く駈けつけた。
 怪しい影は水のなかを行く。それを取逃がしてはならないというので、侍は岸を遠巻きにした。足軽組は五十挺の鉄
前へ 次へ
全34ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング