と、女ばかりの三人暮らしであったが、そのなかで働き盛りのお福は海馬に踏み殺されて、老人と小娘ばかりが残ったのである。幸いにおもよは六十を越してもまだ壮健であるので、やがてはおらちに相当の婿を迎えることにして、ともかくも一家を保っているのであった。そういう訳であるので、おもよは我が身の不幸に引きくらべて、傷ついた若侍にもいっそう同情したらしく、村の人びとの先に立って親切に彼を介抱した。
そこへ城内の人々がたずねて来た。市五郎の容態はなにぶん軽くないのをみて、一行十一人のうちから四人は彼に附添って帰城することになった。その四人の中に甚七も加えられた。それは伊丹弥次兵衛の意見で、彼がふたたび失態を演じた場合には、今度こそほんとうに腹でも切らなければならない事になるのであるから、いっそ怪我人を守護して帰城した方が無事であろうというのであったが、本人の甚七はどうしても肯《き》かなかった。武士の面目、たとい命を捨ててもよいから是非とも後に残りたいと言い張るので、結局他の者をもって彼に代えることになった。
こうなると、甚七ばかりでなく、怪我人に附添ってむなしく帰城するよりも、あとに残って海馬探検に加わりたいという志願者が多いので、弥次兵衛も少しくその処置に苦しんだが、どうにかその役割も決定して、怪我人を戸板にのせて村の者四人にかつがせ、さらに四人の若侍がその前後を囲んで帰城することになった。あとには弥次兵衛と甚七をあわせて、七人の者が残されたわけである。
「馬妖記」にはその七人の姓名が列挙《れっきょ》してある。それは伊丹弥次兵衛正恒、穂積権九郎宗重、熊谷小五八照賢、鞍手助左衛門正親、倉橋伝十郎直行、粕屋甚七常定、神原茂左衛門基治で、年齢はいちいち記《しる》されていないが、十九歳の茂左衛門基治、すなわちこの「馬妖記」の筆者が一番の年少者であったらしい。この七人が三組に分れた。第一組は弥次兵衛と助左衛門、第二の組は権九郎と小五八、第三の組は伝十郎と甚七で、茂左衛門一人はこの次郎兵衛後家の家に残っていることになった。要するにここを本陣として、誰か一人は留守居をしていなければならないというので、最年少者の茂左衛門がその留守番を申付けられたのである。組々の侍には村の若者が案内者として二人ずつ附添い、都合四人ずつが一組となってここを出発する頃には、夜もいよいよ更けて来て、暗い大空はこの村
前へ
次へ
全17ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング