告する時は、いかにも自分たちの武勇が足らないように思われるばかりか、無断で海馬探検などに出かけて来てこの失態を演じたとあっては、組頭《くみがしら》からどんなに叱られるか判らない。さりとて今さら仕様もないので、彼は市五郎の看護を他の人びとにたのんで、自分だけはひとまず城内へ戻ることにした。戻ると、果して散々《さんざん》の始末であった。
「お留守をうけたまわる身の上で、要もない悪戯《いたずら》をして朋輩を怪我人にするとは何のことだ。侍ひとりでも大切という今の場合を知らないか。」と、彼は組頭から厳しく叱られた。
「いったい我れわれを出し抜いて、自分たちばかりで手柄をしようとたくらむから悪いのだ。」と、彼は他の朋輩からも笑われた。
叱られたり笑われたりして、覚悟の上とはいいながら甚七も少しく取り逆上《のぼ》せたらしい。かれは危うく切腹しようとするところを、朋輩どもに支えられた。それを聞いて組頭はまた叱った。
「市五郎が怪我人となったさえあるに、甚七までが切腹してどうするのだ。他の者どもを案内して行って、早く市五郎を連れて帰れ。」
朋輩共も一旦は笑ったものの、ただ笑っていて済むわけのものではないので、組頭の指図にしたがって、十人はすぐに支度をして城を出た。甚七は無論その案内に立たされた。神原君の先祖の茂左衛門基治はその当時十九歳の若侍で、この一行に加わっていたのである。
その途中で年長《としかさ》の伊丹弥次兵衛がこんなことを言い出した。
「組頭はただ、古河市五郎を連れ帰れというだけの指図であったが、海馬の噂は我れわれも聞いている。そのままに捨てておいては、お家《いえ》の威光にかかわる事だ。殊に甚七と市五郎がかような不覚をはたらいたのを、唯そのままに致しておいては、他国ばかりでなく、御領内の民《たみ》百姓にまで嘲《あざけ》り笑わるる道理ではないか。まず市五郎の容態を見届けた上で、次第によっては我れわれもその馬狩りを企ててはどうだな。」
人びとは皆もっともと同意した。かれらが里に近づいた頃に、家々の飼馬は一度に狂い嘶いて、かの怪物がまだそこらに徘徊していることを教えたので、人々の気分はさらに緊張した。年の若い茂左衛門の血は沸いた。
三
古河市五郎が運び込まれたのは、かの次郎兵衛後家のお福の家であった。お福の家は母のおもよと貰い娘のおらちという今年十六の小娘
前へ
次へ
全17ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング