で、御料理の器《うつは》にそのお皿をおつかひなさる。又しても諄《くど》く申すやうぢやが、一枚一枚鄭重に取りあつかへ。割るは勿論、疵《きず》をつけても一大事ぢやぞ。よいか。
二人 はい、はい。
十太夫 殿様がお帰りになるまでに、あちらのお客間を取片附けて置かねばならぬ。では、そのお皿を元のやうに箱に入れて、お勝手の方へ運んでおけ。やれ、忙しいことぢや。
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(十太夫はそゝくさと庭に降りて上《かみ》の方《かた》に去る。お仙はあとを見送る。)
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お仙 ほんにいつも/\気ぜはしいお人ぢや。併しそれほど大切なお皿ならよく気をつけて取扱はねばなるまい。なう、お菊どの。はて、お前は何をうつとりとしてゐるのぢや。
お菊 (突然に。)お仙どの。
お仙 なんぢやえ。
お菊 このごろ殿様は御縁談があるとかいふ噂ぢやが、お前それをほんたうと思ふかえ。
お仙 さあそれは、新参のわたしには判らぬが、なにやらそんなお噂がないでも無いやうな。
お菊 無いでもないやうな。(口のうちで繰返す。)若しあつたとしたら。
お仙 おめでたいことぢや。
お菊 さうかも知れぬ。(腹立たしげに云ひしが又思ひ直して。)いや、それは嘘であらう。嘘ぢや、嘘ぢや。うそに違ひない。
お仙 でも、殿様ももうお年頃ぢや。奥様をお貰ひなさるに不思議はあるまい。
お菊 奥様……。(又腹立たしげに。)内の殿様は奥様などお貰ひなさる筈がないのぢや。
お仙 はて、そんなに怖い顔をして、なぜわたしを睨むのぢや。お前はこのごろ様子が変つて、ぢつと考へてゐるかと思へば、急にじれたり怒つたり、なにか気合でも悪いのかえ。
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(お菊はだまつて俯向《うつむ》いてゐる。琴唄のやうな独吟になる。)
唄※[#歌記号、1−3−28]世の中の花はみじかき命にて、春は胡蝶の夢うつつ、なにが恋やら情《なさけ》やら。
(お仙は五枚の皿を片附けて箱に入れる。お菊はやはり考へてゐる。)
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お仙 おとなりのお屋敷では又いつものお琴のお浚《さら》ひが始まつたやうな。(箱をかゝへて起つ。)さあ、おまへも早うお勝手へ……。わたしは一足さきへ行きますぞえ。
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(お仙は庭に降りて下の方に去る。)
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お菊 (苛々《いら/\》して。)えゝ、なんとしたものであらう。わたしといふ者を打捨てて、ほかの奥様をお貰ひ遊ばすやうな、そんな嘘つきの殿様でないことは、不断からよく知つてゐるものの、小石川の伯母様の御媒介《おなかうど》で、飯田町の大久保様とやらから奥様をお迎へなさる、内相談があるとやら。(また考へる。)いや、それはほんの人の噂ぢや。おゝ、さうぢや。現にこのあひだも殿様にそれを云うて念を押したら、えゝ、馬鹿め、おれを疑ふにも程がある。まあ、黙つて長い目で見てをれ、とたゞ一口に叱りなされた。叱られて嬉しかつたも束《つか》の間《ま》で、又なんとやら疑ひの芽が噴いてくる……。えゝ、もうどうともなれ。
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唄※[#歌記号、1−3−28]物に狂ふか青柳も、風のまに/\もつれて解けて、糸のみだれの果しなき。
(お菊は少しく悶《じ》れたる気味にて皿を片づけてゐたりしが、また手をやすめて考へる。)
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お菊 よもやとは思ふものの、万一ほんたうに奥様が来るやうであつたら……。えゝ、気の揉めることぢや。たとへ口ではなんと仰せられても、男はいつはりの多いものとやら。なんとかして殿様の、心の奥の奥を確かに見きはめる工夫はないものか。(思案しながら我手に持つたる皿にふと眼をつける。)お家に取つては大切な宝といふこの皿を、もしも妾《わたし》が打砕いたら……。(又かんがへる。)とは云ふものの、大切なお道具を、むざ/\毀《こは》すは勿体ない。
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唄※[#歌記号、1−3−28]雲さへ暗き雨催ひ、故郷の空はいづこぞと、ゆくてに迷ふ雁《かり》の声。
(お菊は皿をながめて、毀さうか毀すまいかと迷つてゐる。)
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お菊 えゝ、もう寧《いつ》そのこと。
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唄※[#歌記号、1−3−28]しづ心なく散りそめて、土に帰るか花の行末。
(この以前よりお仙は下手《しもて》より出で来りてうかゞひゐる。お菊は思ひ切つて一枚の皿を取り、縁の柱に打ち付けて割る。この途端に、下の方にて「お帰り」と大きく呼ぶ声。お仙は早々に下の方へ立去る。上の方より庭
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