の音羽あたりは江戸の場末であるから、庭にも往来にも春の霜が深かった。早起きを習いとする瓜生の家では、うす暗いうちから寝床を離れて、お由は下女に指図して台所に立ち働いていた。お北は表へ出て門前を掃いていると、隣家の黒沼でももう起きているらしく、お勝も箒《ほうき》を持って門前へ出てきた。ふたりの娘はゆうべの挨拶を終ると、お勝は摺り寄ってささやくように云った。
「あなた、ゆうべの事を誰かに話しましたか」
「いいえ。まだ誰にも……」
「わたしはお母さまに話したのですよ」と、お勝はいよいよ声をひくめた。「そうしたら、お母さまはもう白い蝶々のことを知っているのです」
「お母さまも見たのですか」
「自分は見ないけれども、その話は聞いているのだそうです。お父さまに話したらば、そんな馬鹿なことを云うなと叱られたので、それぎり誰にも云わなかったのだそうです」
 御賄組などはその職務の性質上、どちらかと云えば武士気質《さむらいかたぎ》の薄い人々が多いのであるが、お勝の父の黒沼伝兵衛は生まれつき武士気質の強い男で、組じゅうでも義理の堅い、意地の強い人物として畏敬されていた。その伝兵衛に対してお勝の母が何か怪談
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