はいった。
 伝兵衛は妻のお富をよびおこして手燭をともさせ、寝巻を払ってあらためたが、どこにも蝶の影は見えなかった。あなたの眼のせいでしょうとは云ったが、お富も一種の不安を感じないでもなかった。お勝をゆりおこして訊《き》いてみたが、お勝は別におそろしい夢に魘《うな》されたのでも無く、唯うとうとと眠っていて何事も知らないと云った。
 話は単にそれだけのことで、しょせんは伝兵衛の眼の迷いと云うことに帰着してしまったのであるが、場合が場合であるだけに、どの人の胸にも消えやらない疑いが残っていた。臆病なお安は頭から衾《よぎ》を引っかぶって夜の明けるまでおちおちとは眠られなかった。
「黒沼の小父さんも年を取ったな」と、長三郎はその話を聴きながら、肚《はら》のなかで笑った。
 ふだんはそんな怪談をあたまから蹴散らしていながら、いざとなれば心の迷いからそんな怪しみを見るのである。年を取ったと云っても、四十を越してまだ間もないのに、人間はそんなにも弱くなるものかなどとも考えた。
「そんなことは誰にも話さない方がいい。わたしも黙っているから」と、長三郎はお安に注意するように云った。
「ええ。誰にも云っち
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