い。なぜいつまでも黙っているんだよ」と、吉五郎は再びその肩を軽く叩いた。
前にも云う通り、門の正面には南風が強く吹き付けるので、吉五郎は横手の生垣をうしろにしてならんでいたのであるが、その時、その生垣の杉のあいだから一つの手があらわれて、暗いなかで吉五郎の襟髪を掴んだかと思うと、力任せに強く引いた。不意に掴まれたのと、その引く力が可なりに強かったのとで、吉五郎は思わず尻餅をついて仰向けに倒れると、その隙をみて忽ち立ちあがったお冬は、いわゆる脱兎《だっと》の勢いで駈け出した。
それに気がついて、留吉があわてて駈け寄ると、お冬は手早くその提灯を叩き落とした。かれは灯の見える大通りへ出るのを避けて、暗い目白坂を駈けのぼって行くのである。
それを追うよりも、まず親分を救わなければならないと思ったので、留吉はそのまま門前へ駈けつけると、吉五郎は倒れながら相手の腕を掴んでいた。
「留、早くそいつを取っつかまえろ」
留吉はこころえて、これも生垣越しに相手の腕をつかんで引き出そうとすると、相手は出まいと争ううちに、生垣の細い杉は二、三本ばらばらと折れて、内の人間は表へころげ出した。彼は必死にいどみ合ったが、捕り方ふたりの為に組み敷かれて、更に早縄をかけられて、門前に引き据えられた。
「なにしろ暗くっちゃあ、面《つら》が見えねえ」
今度は寺の門を叩いて、提灯の火を借りることにした。その火に照らされた男の顔を覗いて、留吉はうなずいた。
「俺もそんな事じゃあねえかと思った。親分。こいつは火の番の藤助ですよ」
「そうか」と、吉五郎もうなずいた。「こんな所で調べていると、又どんな邪魔がはいらねえとも限らねえ。やっぱり自身番へ連れて行こう」
云いも終らないうちに、果たして邪魔がはいった。おそらく門内にひそんでいたのであろう。ひとりの覆面の男が突然に跳り出て、まず留吉の提灯をばさりと斬り落とした。
「光る物を持っているぞ。気をつけろ」
留吉に注意しながら、吉五郎はふところから十手を出すと、留吉も十手を取って身構えした。覆面の男は無言で斬ってかかった。それが侍であると覚ったので、ふたりも油断は出来ない。縄付きの藤助をその儘にして、激しく斬って来る相手の刀の下を抜けつくぐりつ闘っていると、男はなんと思ったか、俄かに刃《やいば》を引いて暗い坂の方角へ一散《いっさん》に逃げ去った。
ふたりはつづいて追おうとしたが、逃げてしまった相手を追うよりも、既に捕えた相手を逃がさない工夫が肝腎《かんじん》であると思ったので、ふたりは云い合わせたように足を停めた。彼等は再び門前へ引っ返して来ると、暗いなかに藤助の姿は見えないらしかった。留吉は寺内へ駈け込んで更に提灯を借りて来ると、果たしてそこらに藤助の姿は見えなかった。
覆面の男は藤助を救うがために斬って出たのであろう。その闘いのあいだに彼は姿を隠したのであろう。しかも藤助は縄付きであるから、自由に遠く走ることは出来ない筈である。あるいは墓場に忍んでいるかも知れないと云うので、留吉が先きに立って石塔のあいだを縫ってゆくと、白い蝶が又ひらひらとその眼さきを掠《かす》めて飛んだ。
「又来やあがった」
ふたりは怪しい蝶の行くえを追って行くとき、留吉は足許《あしもと》に倒れている石塔につまずいて横倒しにどっと倒れた。
「あぶねえぞ」と、吉五郎は声をかけたが、留吉は直ぐに返事をしなかった。
留吉は倒れるはずみに、石塔の台石などで脾腹《ひばら》を打ったらしい。さすがに気を失うほどでも無かったが、彼は低い息をついているばかりで容易に起き上がられそうもないので、吉五郎は手を貸して扶《たす》け起こすと、留吉はぐたりとしていた。
「留。どうした。しっかりしろ」
こうなると、蝶の詮議は二の次にして、子分を介抱しなければならないので、吉五郎は留吉を抱くようにして墓場を出た。寺の玄関へ廻って案内を乞うと、奥から納所《なっしょ》が出て来た。留吉はさっき提灯を借りに行ったので、納所もその顔を識っていた。
「その人がどうかしたのですか」
「そこで転んで怪我をしたらしいんです。済みませんが、燈火《あかり》を拝借したいので……」
留吉を玄関に横たえて、納所が持って来た灯のひかりに照らして見ると、留吉は脾腹を打ったほかに、左の手も痛めているらしかった。吉五郎は自分の身許を明かして、直ぐに医者を呼んで貰いたいと頼むと、納所は異議なく承知して、寺男を表へ出してやった。
吉五郎らの身許を知ったので、寺でも疎略《そりゃく》には扱わなかった。住職もやがて奥から出て来た。彼は納所らに指図して、書院めいた座敷へ怪我人を運び込ませた。
「夜中お騒がせ申して、相済みません」と、吉五郎はあらためて住職に挨拶した。
「いや、どう致しまして……」と、住職は留吉
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