の方を見返りながら、これも丁寧に会釈《えしゃく》した。「それにしても、夜中どうしてこの墓地へおはいりなされた。なにか御用でござるか」
住職の物云いは穏かであるが、その眼の怪しく光っているのを、吉五郎は見逃がさなかった。
初対面の住職はもう四十五、六歳であろう。色の蒼白い痩形の一種の威厳を具えたように見える人柄であった。彼は何事も知らないのであろうか、あるいは何かの秘密を知っているのであろうか。それを確かめない以上は、迂闊《うかつ》な返事も出来ないので、吉五郎は用心しながら答えた。
「実はここの火の番の藤助という者の行くえを探して居りますと、今夜こちらの御門前でその姿を見付けましたので、取り押さえて一旦は縄をかけたのですが、又どこへか逃がしてしまいましたので、それを探しにお墓場の方へまいります途中、なにぶんにも暗いので、足許に倒れている石塔につまずきまして……」
「左様でござりましたか。火の番の藤助はわたくしも識って居りますが、あなた方のお縄にかかりながら又それを抜けて逃げるとは、見掛けによらない大胆者でござるな。して、藤助に何か御詮議の筋があるのでござりますか」
「藤助は先月以来、行くえが知れないのでございます」
「それはわたくしも聴いて居りますが……。では、藤助は何かうしろ暗いことでもあって、すがたを隠しているのでござりますな」
そらとぼけてそんなことを云うのか、或いはまったく知らないのか。吉五郎はその判断に苦しみながらあいまいに答えた。
「うしろ暗いことがあるか無いか、それは調べてみなければ判りませんが、いずれにしても駈落者《かけおちもの》は一応の詮議を致さなければなりませんので……。まして世間へは駈け落ちと見せかけて、我が家の近所にうろ付いているなぞは、潔白な人間のおこないでは無いように思われますので、ともかくも取り押さえようと致しますと、案外に手向いを致しますので、よんどころなくお縄をかけたのでございます」
「ごもっともで……。そこで、その藤助がこの寺の墓地へ逃げ隠れたと仰しゃるのですか」と、住職はまた訊《き》いた。
「今も申す通り、なにぶん暗いので確かなことは判りませんが、もしやと思いまして……」
「では、確かにこの寺内へ逃げ込んだというお見込みが付いたわけでも無いのですな」
このとき納所が茶と菓子を運んで来たので、それを機《しお》に住職は又あらためて会釈した。
「甚だ勝手でござりますが、実は二、三日前から風邪で引き籠って居りますので、わたくしはこれで御免を蒙ります。どうぞゆるゆると御休息を……」
「御病ちゅう御迷惑をかけて恐れ入ります、御遠慮なくお休みください」
たがいに挨拶して、住職は納所と共に立ちあがった。そのうしろ姿を見送りながら、吉五郎は何か思案していると、今まで無言でころがっていた留吉は自由にならない体を少しく起こして、小声で話しかけた。
「親分、あの和尚《おしょう》は怪しゅうござんすね」
「おめえも見たか」
「さっきから寝ころびながら、あいつの顔色をうかがっていたんですが、あの和尚、なにか因縁《いんねん》がありそうですぜ」
「おれの思う壺にだんだん嵌《はま》って来る」と、吉五郎はほほえんだ。「全くあの和尚は唯の鼠じゃあねえ」
足音がきこえたので、ふたりは急に口をつぐむと、納所が医者を案内して来た。
九
岡っ引の吉五郎と、その子分の留吉は着々失敗して先ず第一に目的の白い蝶を見うしない、次にお冬を取り逃がし、次に火の番の藤助を取り逃がし、更に覆面の曲者を取り逃がし、最後に留吉は墓場でころんで負傷した。一夜のうちにこれほどの失敗が重なったのは、彼等に取ってよくよくの悪日《あくび》とも云うべきであった。
しかも不幸は彼等の上ばかりでなく、この事件に重大の関係を有する御賄組の人々の上にも、種々の不幸が打ち続いたのであった。黒沼の婿の幸之助がゆくえ不明になったかと思うと、つづいて瓜生の家でも娘のお北が姿をかくした。幸之助の家出、お北の家出、両家ともに努《つと》めて秘密にしていたのであるが、女中らの口からでも洩れたと見えて、早くも組じゅうに知れ渡ってしまった。
取り分けて、人々をおどろかしたのは、黒沼の娘お勝の死であった。前にも云う通り、お勝は先月以来引きつづいて病床に横たわっていて、急養子の幸之助とは名ばかりの夫婦であったが、その幸之助が家出すると又その跡を追うように隣家のお北が家出したことを知った時に、お勝は枕をつかんで泣いた。
「口惜《くや》しい」
そのひと言に深い意味のこもっていることは、母のお富にもよく察せられたが、まだ確かな証拠を握ったわけでもないので、表立って瓜生へ掛け合いにも行かれず、さしあたりいい加減に娘をなだめて置くと、お勝は母や女中の隙をみて、床の上に起き直って
前へ
次へ
全42ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング