ろから四つ折りの鼻紙を取り出して、蝶を目がけてはた[#「はた」に傍点]と打つと、白い影はそのまま消え失せてしまった。
「たしかに手応《てごた》えはあったのだが……」と、吉五郎はそこらを透かして見まわしたが、提灯を持たない彼は、暗い地上に何物をも見いだすことが出来なかった。
「そこらへ行って蝋燭を買って来ましょう」と、留吉は土地の勝手を知っていると見えて、すぐにまた駈け出した。
寺門前には小さい商人店《あきんどみせ》が五、六軒ならんでいる。表の戸はもう卸《おろ》してあったが、戸のあいだから灯のひかりが洩れているので、留吉はその一軒の荒物屋の戸を叩いて蝋燭を買った。裸蝋燭では風に吹き消される虞《おそ》れがあるので、小さい提灯を借りて来た。
その提灯のひかりを頼りに、ふたりはそこらの地面を照らして見たが、蝶らしい物の白い影はどこにも見あたらなかった。吉五郎は舌打ちした。
「仕様がねえ。風が強いので吹き飛ばされたかな。まさかに消えてなくなった訳でもあるめえ」
と云う時に、留吉は声をあげた。
「や、飛んでいる。あすこに……」
白い蝶は、三、四間|距《はな》れた所に飛んでいるのである。それを見て、吉五郎はまた舌打ちした。
「畜生。ひとを玩具《おもちゃ》にしやあがる」
ふたりは直ぐに駈け寄ると、蝶の影は消えるように見えなくなった。
留吉は提灯をふりまわして、しきりにそこらを照らして見たが、それらしい物の影もないので、彼は焦《じ》れて無闇に駈け廻った。吉五郎も梟《ふくろう》のように眼を見張って、暗いなかを覗いて歩いたが、それもやはり無効であった。
往来の絶えた寺門前の闇のなかに、大の男ふたりが一生懸命駈け廻って蝶を追っているのは、どうしても狐に化かされたような図である。しかも今の彼等はそんなことを考えている暇はなかった。
「ほんとうに人を馬鹿にしていやあがる。忌々《いまいま》しい奴だな」と、留吉は息をつきながら云った。
吉五郎も立ち停まって溜め息をついた。
いかに焦《じ》れても、燥《あせ》っても、怪しい蝶はもうその影を見せないのである。ふたりはあきらめて顔を見合わせた。
「親分。どうしましょう」
「仕方がねえ。又どっかで見付かるだろう」
「これからどうします」
「むむ。おれの考えじゃあ……」と、云いかけて、吉五郎は俄かに見返った。「留。あれを取っ捉まえろ」
見ると、うしろの寺の生垣《いけがき》の下に、犬か猫のようにうずくまっている小さい影がある。留吉は持っている提灯を親分に渡して、直ぐにその影を捕えに行った。影は飛び起きて、暗い坂の上へ逃げて行こうとするのを、留吉は飛びかかって押さえ付けた。吉五郎がさしつける提灯のひかりに覗いて見て、留吉はうなずいた。
「むむ。てめえか。このあいだからどうもおかしい奴だと思っていたのだ」
「おめえはその女を識っているのか」
「こいつは火の番の藤助のむすめで、お冬というんですよ」
「火の番の娘か」と、吉五郎もうなずいた。「おれもそいつを調べてみようと思っていたのだ」
「自身番へ連れて行きましょうか」
「いや、自身番なんぞへ連れて行くと、人の目に立っていけねえ。ここでおれが調べるから、おめえは提灯を持って往来を見張っていろ」
吉五郎はお冬の腕をつかんで、寺の門前へ引き摺って行ったが、正面は風があたるので、横手の生垣をうしろにしてしゃがんだ。
「おまえは今頃なんでこんな所に忍んでいたのだ」
お冬は黙っていた。
「おれ達は十手《じって》を持っている人間だ。おれ達の前で物を隠すと為にならねえぞ」と、吉五郎は嚇すように云い聞かせた。「そこでお前の親父はどうした。まだ帰らねえのか」
「はい」と、お冬は微《かす》かに答えた。
「ほんとうに帰らねえか。あすこの佐藤という旗本屋敷に隠されているんじゃあねえか」
お冬はやはり黙っていた。
「お前はそれを知っている筈だ。おまえの親父は訳があって、当分は佐藤の屋敷に隠れているから心配するなと、お近という女から云い聞かされている筈だが……。それでも知らねえと強情《ごうじょう》を張るか。又そのお近という女は、ときどきにお前の家へ忍んで来て、黒沼の婿の幸之助と逢曳《あいびき》をしている筈だが……。それでもお前は強情を張るか」
お冬はまだなんにも云わないので、吉五郎はほほえみながらその肩を軽く叩いた。
「おまえは年の割に、なかなかしっかり者だな。と云って、褒めてばかりはいられねえ。あんまり強情を張っていると、おれも少しは嚇かさなけりゃあならねえ。おまえは一体、なんでここへ来ていたんだよ。おまえにも色男でもあって、今夜ここへ逢いに来ていたのか」
お冬はあくまでも強情に口を閉じていた。
「それとも俺たちの後を尾《つ》けて来て、何かの立ち聴きでもしようとしたのか。え、お
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