じゃあ井戸の水を汲んで来てくれ」
「水を飲ませたぐらいで、生き返るでしょうか」
「なんでもいいから、早く水を汲んで来い」と、長三郎は叱り付けるように叫んだ。
藤助は無言で寺の門内にはいった。提灯は彼と共に去ってしまったので、門前はもとの闇にかえった。その暗いなかで、長三郎は黒沼の小父さんの死骸をかかえながら、半分は夢のような心持で、氷った土の上に小膝をついていた。
その夢のような心持のなかでも、彼はかんがえた。小父さんが急病で仆《たお》れたので無いことは、刀の柄《つか》に手をかけているのを見ても判っている。小父さんは何物にか出会って、刀をぬく間もなしに仆《たお》れたのであろう。長三郎はかの白い蝶を思い出した。自分はたった今、こちらで怪しい蝶の影をみたのである。小父さんはかの蝶のために仆《たお》されたのではあるまいか。長三郎は一種の恐怖を感ずると共に、又一方にはおさえがたい憤怒《ふんぬ》が胸をついた。
「畜生、おぼえていろ」
彼は肚《はら》のなかで叫びながらあたりの闇を睨んでいるとき、藤助の提灯の火が鬼火《おにび》のように又あらわれた。彼は片手に小さい手桶をさげている。
血のめぐりが悪いのか、あるいは意地が悪いのか、こういう場合にも彼はさのみに慌てている様子もみせず、いつもの足取りで徐《しず》かに歩いて来るらしいのが、又もや長三郎を焦燥《いらだ》たせた。
「おい。早く……早く……」
呶鳴り付けられても、彼はやはり騒ぎもせず、無言で門へ出て来ると、長三郎は引ったくるようにその手桶を受け取った。手桶に柄杓《ひしゃく》が添えてあるので、長三郎はその柄杓に水を汲んで、伝兵衛の口にそそぎ入れた。
「小父さん……小父さん……。しっかりして下さい」
伝兵衛は答えなかった。柄杓の水も喉へは通らないらしかった。それが当然であると思っているかのように、藤助は黙って眺めていた。
「仕方がない。寺へ連れ込んで、医者を呼ぼう」と、長三郎は柄杓を投げ捨てながら云った。
藤助はやはり無言で立っていた。どこかで梟《ふくろう》の声がきこえた。
四
黒沼伝兵衛の死骸は寺内へ運び込まれた。とかくに落ち着き顔をしている火の番の藤助を追い立てるように指図《さしず》して、長三郎は近所の医者を迎えにやった。近所といっても四、五丁|距《はな》れているので、藤助は直ぐに帰って来ない。そのあいだに、寺僧も手伝って種々介抱に努めたが、伝兵衛の死骸は氷のように冷えて行くばかりであった。
「お気の毒なことでござるな」と、住職ももう諦めたように云った。
長三郎は無言で溜め息をついた。飛んだことになってしまったと、今夜の企《くわだ》てを今さら悔むような心持になった。しかもそんな愚痴を云っている場合ではない。しょせん蘇生《そせい》の望みがないと諦めた以上、医者の来るのを待っているまでもなく、一刻も早く黒沼の家へ駈け付けて、この出来事を報告して来なければなるまいと思ったので、彼は死骸の番を寺僧に頼んで表へ出た。
寺では提灯を貸してくれたので、長三郎はそれを振り照らして出たが、風が強いのと、あまりに慌てて駈け出した為に、寺の門を出てまだ三、四間も行き過ぎないうちに、提灯の火はふっと消えてしまった。また引っ返すのも面倒であるので、さきを急ぐ長三郎は暗いなかを足早に辿《たど》って行くと、どこから出て来たのか、突き当たらんばかりに、ひとりの男が小声で呼びかけた。
「あ、もし、もし……」
不意に声をかけられて、長三郎はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ち停まったが、相手のすがたは闇につつまれて見えなかった。
「あのお侍さんは死にましたか」と、男は訊《き》いた。
なんと答えていいかと、長三郎はすこし躊躇していると、男は重ねて云った。
「あのかたは何と仰しゃるんです」
長三郎はこれにも答えることは出来なかった。黒沼伝兵衛が往来なかで訳のわからない横死《おうし》を遂げたなどと云うことが世間に洩れきこえると、あるいは家断絶というような大事になるかも知れないのであるから、迂闊《うかつ》な返事をすることは出来ない。殊に心の急《せ》いている折柄、こんな男に係り合っているのは迷惑でもあるので、彼は無愛想に答えた。
「そんなことは知らない」
「お若いかたですか」
「知らない、知らない」
云い捨てて長三郎は又すたすたと歩き出すと、男は執念深く付いて来た。
「それから、あの……」
まだ何か訊こうとするらしいので、長三郎は腹立たしくなった。それには云い知れない一種の不安も伴って、彼は無言で逃げるように駈け出した。暗闇を駈けて、音羽の大通りの角まで来ると、彼はまた何者にか突き当たった。
「瓜生さんの若旦那ですか」と、相手は声をかけた。
それは藤助である。彼の持っている提灯も消えてい
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