るらしい。
「医者は……」と、長三郎はすぐに訊いた。
「もう寝ているのを叩き起こしました。あとから参ります」
「じゃあ。頼むよ」
長三郎はそのまま駈けつづけて、自分の組屋敷へ帰った。もうこうなっては親たちに隠して置くことは出来ない。あとでどんなに叱られるにしても、万事を正直に報告して置かなければならないと思ったので、彼は先ず自分の家へ立ち寄ると、父も母も意外の報告におどろかされた。父の長八は慌てて身支度をして伜と一緒に表へ飛び出した。
二人はとなりの黒沼の門を叩くと、妻のお富も娘のお勝も玄関に出て来た。かれらも意外の報告におどろかされて、直ぐに其の場へ駈け付けることになった。主人のほかには男のない家《うち》であるから、お富とお勝が出て来た。
男ふたりと女ふたり、四つの提灯の火は夜風にゆらめきながら、凍った道を急いで目白坂下へゆき着くと、彼等よりも先きに医者が来ていた。医者はもう蘇生の見込みはないと云った。
しかし伝兵衛の死因は不明であった。身内になんの疵らしいものも見いだされず、さりとて急病ともおもわれず、まことに不思議の最期《さいご》であると、医者も首を傾《かし》げていた。刀に手をかけていたのを見ると、なにか怪しい物にでも出会って、異常の驚愕か恐怖のために心《しん》の臓を破ったのではあるまいかと、医者は覚束《おぼつか》なげに診断した。寺の住職も先ずそんなことであろうと云った。長八親子は途方に暮れたように歎息した。お富は泣き出した。
「さて、これからだ」
長八は膝に手を置いて、その太眉を陰《くも》らせた。長三郎も薄々あやぶんでいた通り、これが表向きになると黒沼の家に疵が付かないとも限らない。死んだ者は余儀ないとしても、その家の跡目が立たないようでは困る。長八は差しあたりその善後策を考えなければならなかった。
この時代の習いとして、こういう場合には本人の死を秘《かく》して、娘に急養子をする。そうして、まず養子縁組の届けをして置いて、それから更に本人急死の届けを出すことになる。一面から云えば、まことに見え透いた機関《からくり》ではあるが、組頭もその情を察して大抵はその養子に跡目相続を許可することになっている。今度の事件もその方法によって黒沼家の無事を図《はか》るのほかは無い。
「あとあとのこともいろいろござるに因って、今夜のことは何分御内分に……」
と、長八は住職と医者に頼んだ。彼等もその事情を察しているので、異議なく承知した。
医者は承知、寺の方も住職が承知した以上、他の僧らも口外する筈はあるまい。残るは火の番の藤助である。彼にも口留めをして置く必要があるので、長八は伜に云いつけて藤助を探させたが、その姿は見えなかった。
寺の話によると、彼は医者を迎えに行ったままで帰らないと云う。彼は医者の門を叩いて急病人のあることを知らせ、その帰り途《みち》で長三郎に出逢ったことまでは判っているが、それから寺へも帰らずに何処へ行ってしまったのかと人々も少しく不審をいだいたが、この場合、その詮議に時を移してもいられないので、長八は住職と相談の上で近所の駕籠を呼ばせ、急病人の体《てい》にして伝兵衛の死骸を運び出すことにした。そうした秘密の処置を取るには、暗い夜更けが勿怪《もっけ》の仕合わせであった。
これで先ず死骸の始末は付いたが、長八の一存で万事を取り計らうわけにも行かないので、彼は組じゅうでも特別に親しくしている四、五人に事情を打ち明けて、とりあえず急養子の手続きを取ることになった。
前にも云う通り、黒沼の親戚の吉田幸右衛門というのは京橋の白魚河岸に住んで、白魚の御納屋に勤めている。その次男の幸之助はことし廿歳《はたち》で、行くゆくは黒沼の娘お勝の婿になるという内相談も出来ていたのであるから、この際早速にその縁組を取り結ぶことにした。勿論それについてお富にもお勝にも異存はなかった。吉田の家でも不慮の出来事におどろくと共に、当然の処置として幸之助の養子縁組をこころよく承諾した。
すべての手続きはとどこおりなく運ばれて、黒沼の家には何のさわりもなく幸之助がその跡目を相続することになったので、関係者一同も先ずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。伝兵衛の死も表向きは急死という届け出になっているのであるから、死骸の検視のことも無くて、そのまま菩提寺へ送られた。
こうして、この奇怪なる事件も闇から闇へ葬られてしまったが、解けやらない疑いの雲は関係者の胸を鎖《とざ》していた。長三郎は飛んだことに係り合った為に、勿論その両親から厳しく叱られたが、今さら取り返しの付かないことである。それよりも気にかかるのはかの藤助の身の上で、万一その口から当夜の秘密を世間に拡められては面倒である。長八はその翌朝、長三郎を遣わして[#「遣わして」は底本では
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