はその以上のことを洩らさなかった。
「それならばお止めなさい」と、藤助は諭《さと》すように云った。「白い蝶々の飛ぶことはあります。寒い時に蝶々が飛ぶ。……考えてみれば不思議ですが、それには又なにか仔細があるのでしょう。お武家のあなた方がそんなことにお係り合いなさらぬ方がよろしいんです」
「いや、少し訳があるので係り合うのだ。それで、おまえは今夜も見たのか」
 藤助は首を振った。
「その蝶々の飛ぶのは、ここらに限ったことじゃありません。毎晩|屹度《きっと》ここらへ出ると決まっているんじゃありませんから、探してお歩きなすっても無駄なことですよ。今夜はあなたお一人ですか。それともお連れがあるんですか」
 なんと答えてよいかと、長三郎はやや躊躇したが、やがて正直に云った。
「実は黒沼の小父さんと一緒に来たのだ」
「黒沼の旦那……」と、藤助は冷やかに云った。「その旦那はどこにおいでです」
「坂下の門前に待っているのだ」
「はあ、そうですか」
 藤助の声はいよいよ冷やかに聞こえたばかりでなく、提灯の火に照らされた其の顔には冷やかな笑いさえ浮かんだ。
「今も申す通り、ここらを探しておいでになっても、白い蝶々はめったに姿を見せやあしませんよ。かぜでも引かないうちに、早くお引き揚げになった方が、よろしゅうございましょう」
 彼はこう云い捨てて、軽く会釈《えしゃく》したままで立ち去ったが、長三郎はまだ其処にたたずんでいた。
 拍子木《ひょうしぎ》の音は坂を横ぎって、向う横町の方へだんだんに遠くなるのを聞きながら、長三郎は考えた。藤助の話によると、白い蝶は毎晩ここらに出ると限ったわけでも無いと云う。それは自分も覚悟して来たのであるが、ここらを毎晩廻っている火の番がそう云う以上、めったに姿を見せない蝶をたずねて、いつまでも寒い風のなかに徘徊しているのは、なんだかばかばかしいように思われて来た。
「いっそ小父さんに相談して来ようか」
 彼は引っ返そうとして、また躊躇した。折角ここまで踏み出して来ながら、まだ碌々の探索もしないで引っ返しては気怯《きおく》れがしたようにでも思われるかも知れない。長三郎は意気地なしであると、黒沼の小父さんに笑われるのも残念である。ともかく、もう少し歩いてみた上の事だと、長三郎は思い直して又あるき出したが、闇のなかには彼の眼をさえぎる物もなかった。
 まだ五ツ半(午後九時)を過ぎまいと思われるのに、ここらの屋敷町はみな眠ってしまったように鎮まっていた。唯きこえるのは風の音ばかりである。
 長三郎はあても無しに其処らを一巡して、坂の上まで戻って来ると、だんだんに更《ふ》けてゆく夜の寒さが身に沁み渡った。
「小父さんも待っているだろう」
 もうこのくらいで引っ返してもよかろうと思って、長三郎は坂を降りた。もとの寺門前へ来かかった時に、彼は俄かに立ちどまって、口のうちであっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。大きい白い蝶が闇のなかにひらひらと飛んでゆくのを見たのである。彼は眼を据えて、その行くえを見定めようとする間に、怪しい蝶の影は忽ち消えるように隠れてしまった。
 早くそれを小父さんに報告しようと、彼は足早に門前へ進み寄ったが、そこに伝兵衛のすがたは見いだされなかった。わたしの帰りの遅いのを待ちかねて、小父さんもどこへか出て行ったのかと、長三郎は暗い門前を見まわしているうちに、その足は何物にかつまずいた。それが人であるようにも思われたので、彼はひざまずいて探ってみると、それは確かに人であった。しかも大小をさしていた。
 長三郎ははっ[#「はっ」に傍点]と思って慌てて其の人をかかえ起こした。
「小父さんですか。黒沼の小父さん。……小父さん」
 人はなんとも答えなかった。しかもそれが伝兵衛であるらしいことは、暗いなかにも大抵は推察されたので、長三郎はあわてて又呼びつづけた。
「小父さん……小父さん……。黒沼の小父さん」
 その声を聞き付けたらしく、どこからか提灯の火があらわれた。それは火の番の藤助である。彼は提灯をかざして近寄った。
「どうかなすったんですか」
「あかりを見せてくれ」と、長三郎は忙がわしく云った。
 その火に照らされた人は、まさしく黒沼伝兵衛であった。彼は刀の柄《つか》に手をかけたままで、息が絶えていた。慌てながらもさすがは武家の子である。長三郎は直ぐにその死骸をひきおこして身内《みうち》をあらためたが、どこにも斬り傷または打ち傷らしい痕も見いだされなかった。
「早く水を持って来てくれ」と、長三郎は藤助を見かえった。
 藤助は提灯をかざした儘で、唯だまって突っ立っているので、長三郎は焦《じ》れるように又云った。
「おい。この寺へ行って、早く水を貰って来てくれ」
「寺はもう寝てしまいましたよ」と、藤助はしずかに云った。
「それ
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