た訳じゃあるめえな」
「情婦《いろ》になってくれりゃあいいが、まだそこまでは運びが付かねえ」
「それにしても、不思議だな。あの女がおめえに金を貸してくれると云うのは……。どうして貸してくれるんだよ」
「はは、それは云えねえ。なにしろ、おれには貸してくれるよ。おれが口説けば、お近さんは貸してくれるんだ」
「それじゃあ、おれも頼んでみようかな」
「馬鹿をいえ。おめえなんぞが頼んだって、四文も貸してくれるもんか。はははははは」
こんなことを話しながら、押し合ってゆく二人のうしろには、又ひとつ黒い影が付きまとっていた。音羽の七丁目から西へ切れると、そこに少しばかりの畑地がある。そこへ来かかった時に、むこうから拍子木《ひょうしぎ》の音が近づいて、火の番の藤助の提灯がみえた。
「今晩は」と、藤助が先ず声をかけた。
「やあ、御苦労だな」と、中間のひとりが答えた。「べらぼうに寒いじゃあねえか」
「お寒うございますな」
「いくら廻り場所だって、こんなところを正直に廻ることもあるめえ。ここらにゃあ悪い狐がいるぜ」と、他のひとりが笑いながら云った。
「なに、狐の方でもお馴染《なじみ》だから大丈夫ですよ」と、藤助も笑いながら云った。「おまえさん方は今夜も御機嫌ですね」
「あんまり御機嫌でもねえ。無けなしの銭でちっとばかりの酒を飲んで、これから帰ると門番に文句を云われて、御用人に叱られて、どうで碌なことじゃあねえのさ」
「そう云っても、こいつにはお近さんと云ういい年増が付いているのだから仕合わせだよ」
「ええ、つまらねえことを云うな」
「お近さん……」と、藤助の眼は暗いなかで梟《ふくろう》のように光った。「お近さんと云うのは、お屋敷のお近さんですかえ」
「むむ、そうだ」
中間はなま返事をして、そのまま歩き出した。
他のひとりも続いて行った。藤助はまだ何か訊《き》きたそうな様子で、ふた足ばかり行きかけたが、又思い直したらしく、中間どものうしろ姿を見送ったばかりで引っ返して大通りへ出ようとするとき、彼は何かに驚かされたように、俄かに畑のかたを見返ると、そこには小さくうずくまっている物があった。それは狐ではない。人であるらしかった。
人は這うように身をかがめて、畑から往来へ忍び出たかと思うと、草履の音をぬすんで、かの中間共のあとを追って行くらしかった。それと同時に、藤助の提灯の火は風に吹き消されたのか、わざと吹き消したのか、たちまちに暗くなった。彼もまた抜き足をして、その黒い影のあとを追って行った。
一方にこういう事のあるあいだに、又一方には目白坂下の暗い寺門前に、二つの暗い影がさまよっていた。それは黒沼伝兵衛と瓜生長三郎で、かれらは昼間の約束通りに、白い蝶の正体を見とどけに来たのである。長三郎は小声で云った。
「小父さん。この辺ですね」
「この辺だ。きのう源蔵に案内させて、よく調べて置いた。蝶々はあの生垣をくぐって、墓場へ舞い込んだと云うことだ」と、伝兵衛は暗いなかを指さした。
「毎晩ここらへ出るのでしょうか」
「それは判らない。だが、まあ、ここらに網を張っているよりほかはあるまい。風を避《よ》けるために、この門の下にはいっていろ」
「なに、構いません。わたしはそこらへ行って見て来ましょうか」
「むむ、犬もあるけば棒にあたると云うこともある。ただ突っ立っているよりも、少し歩いてみるかな」
「小父さんはここに待ち合わせていて下さい。わたしがそこらを見廻って来ます」
云うかと思うと、長三郎は坂の上へむかって足早に歩き出した。風はなかなか吹き止まないで、寺内の大きい欅《けやき》の梢をひゅうひゅうと揺すって通ると、その高い枝にかかっている破れ紙鳶《だこ》が怪しい音を立ててがさがさと鳴った。
強い風をよけながら、暗いなかに眼を配って、長三郎は坂の上まで登り切ると、とある屋敷の横町から提灯の火がゆらめいて来た。どこをどう廻って来たのか知らないが、火の番の藤助はここへ出て来たのである。彼は拍子木を鳴らしていなかったが、その提灯のひかりで長三郎は早くも彼を知った。
「おい、火の番。今夜はここらで蝶々の飛ぶのを見なかったかね」と、長三郎は近寄って声をかけた。
「おお、瓜生の若旦那ですか」と、藤助は少しく提灯をかざして、長三郎のすがたを透かし視た。「あなたは蝶々を探しておいでなさるんですか」
「おとといの晩、うちの姉さんがここらで白い蝶々を見たと云うから、わたしも今夜さがしに来たのだ。おまえも見たことがあるそうだね」
藤助はそれに答えないで、また訊《き》いた。
「その蝶々をさがして、どうなさるんです」
「どうと云うことも無いが、その蝶々が何だかおかしいから、つかまえて見ようと思うのだ」
「つかまえて……どうなさるんです」
「唯、つかまえるだけの事だ」と、長三郎
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