ゃあならないと、御新造《ごしんぞう》さまからも口止めされているんです」と、お安も云った。
口止めされながら、直ぐに他人にしゃべってしまうのである。長三郎は若い下女の口善悪《くちさが》ないのを憎みながらいい加減にあしらって家へはいった。そうして、朝飯を食ってしまってから、素知らぬ顔で隣りの家へ見舞にゆくと、お勝の容態はやはり好くないらしかった。
「姉さんは……」と、母のお富が訊いた。
「姉はもう好くなりまして、きょう一日も寝ていたらば起きられるでしょう」
「それは仕合わせでしたな。家《うち》の娘はまだこの通りで……」
「御心配ですね」
そんな挨拶をしているうちに、主人の黒沼伝兵衛が奥から出て来た。
「長さん。こっちへ来てくれ」
長三郎を自分の居間へよび入れて、伝兵衛はしずかに云い出した。
「若い者の手前、まことに面目のないことだが、ゆうべは少し失策《しくじり》をやったよ」
「どんなことですか」
長三郎はやはり素知らぬ顔をしていると、伝兵衛は自分の口から白い蝶の話をはじめた。それはさっきお安が長三郎に洩らしたと同じ出来事であった。伝兵衛は正直にゆうべの失策を打ちあけた後に、みずから嘲るように苦笑《にがわら》いをした。
「わたしも小身ながら武士の端《はし》くれだ。世に不思議だの、妖怪だのと云うものがあろうとは思っていない。怪力乱神を語らずとは、孔子も説いている。かの白い蝶の一件は、先日も白魚河岸の親類が来て、何か家内に話して行ったそうだが、わたしは別に気にも掛けずにいた。いや、まったくばかばかしい話だと思っていたのだ。ところが、おとといの晩は家《うち》のお勝も見た。お前の姉さんも見たと云う。まだそればかりでなく、あの水引屋の……職人の源蔵も見たと云う。源蔵は正直者で、むやみに嘘を云うような男でもない。してみると、これには何か仔細があるらしく思われる。就いては、物は試《ため》しだ。わたしは今夜、目白坂の辺へ行って、果たしてその白い蝶が飛ぶかどうかを探索してみようと思うのだが、どうだ、お前も一緒に行ってみないか」
その頃の若侍のあいだには「胆《きも》だめし」と唱えて、あるいは百物語を催し、あるいは夜ふけに墓場へ踏み込み、あるいは獄門首の晒《さら》されている場所をたずねる、などの冒険めいた事がしばしば行なわれていた。伝兵衛が長三郎を誘ったのも、その意味である。長三郎のかよっている剣術の道場でも、これまで往々にそんな催しがあったが、彼はまだ十五歳の前髪であるので、とかくにその仲間から省《はぶ》かれ勝ちであるのを、彼はふだんから残念に思っていた。その矢さきへ、この相談を持ち掛けられたのであるから、長三郎はよろこんで即座に承諾した。彼はぜひ一緒に連れて行ってくれと答えると、伝兵衛は然《さ》もこそと云うようにうなずいた。
「むむ。お前ならばきっと承知するだろうと思った。では、今夜の五ツ頃(午後八時)から出かける事にしよう。だが親父やおふくろが承知するかな」
「夜学に行くことにして出ます」
長三郎は護国寺門前まで漢籍の夜学に通うのであるから、両親の手前はその夜学にゆくことにして怪しい蝶の探索に出ようと云うのである。その相談が決まって、彼は威勢よく我が家へ帰った。
「あなたはともかくも、年の若い長さんなぞを連れ出して、なにかの間違いがあると困りますよ」と、妻のお富は不安そうに云った。
「なに、あいつは年が行かないでも、なかなかしっかりしているから、大丈夫だよ」
伝兵衛は笑っていた。
三
廿日正月《はつかしょうがつ》という其の日も暮れて、宵闇《よいやみ》の空に弱い星のひかりが二つ三つただよっていた。今夜も例のごとく寒い風が吹き出して、音羽の大通りに渦巻く砂をころがしていた。
「寒い、寒い。この正月は悪く吹きゃあがるな。ほんとうに人泣かせだ」
この北風にさからって江戸川橋の方角から、押し合うように身を摺り付けて歩いて来たのは、二人の中間《ちゅうげん》である。どちらも少しく酔っているらしく、その足もとが定まらなかった。
「いくら寒くっても、ふところさえ温《あった》かけりゃあ驚くこともねえが、陽気は寒い。ふところは寒い。内そとから責められちゃあやり切れねえ」と、ひとりが云った。
「まったくやり切れねえ」と、他のひとりも相槌《あいづち》を打った。
「仕方がねえ。叱られるのを承知で、また御用人を口説《くど》くかな」
「いけねえ、いけねえ。うちの用人と来た日にゃあとてもお話にならねえ。それよりもお近《ちか》に頼んだ方がいい。たんとの事は出来ねえが、一朱や二朱ぐれえの事はどうにかしてくれらあ」
「お近に……。おめえ、あの女に借りたことがあるのか」
「ほかの者にゃあどうだか知らねえが、おれには貸してくれるよ」
「まさか情夫《いろ》になっ
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