金田という旗本の隠居に受け出されて、柳島の下屋敷に入り込んで、当座は何事もなく暮らしていたのであるが、お近は深川にいる頃から音羽の旗本佐藤孫四郎とも馴染《なじみ》をかさねていた。佐藤は二十五、六の独身者《ひとりもの》で、お近の心はそちらになびいていたが、何分にも金田にくらべると佐藤は小身であり、且は道楽者で身上《しんしょう》も悪いので、金田と張り合うだけの力はなく、お近は心ならずも柳島の屋敷へ引き取られてしまったのである。しかも二人の縁は切れないで、お近は柳島へ行った後も寺参りや神詣《かみもう》でにかこつけて、ひそかに佐藤と逢曳《あいび》きを続けていた。
その秘密を金田の隠居に発見されて、事が面倒になって来たのと、一方の佐藤は長崎出役を命ぜられて西国《さいこく》へ旅立つことになったのとで、お近は遂に金田の隠居を殺害してその手箱から盗み出した三十両の金を路用に、佐藤のあとを追って行った。勿論、表向きは佐藤の屋敷へ入り込むことは出来ないので、長崎の町はずれに隠まわれて外妾のように暮らしているうちに、三年の月日はいつか過ぎて、佐藤は江戸へ帰ることになった。帰府の道中も同道しては人目《ひとめ》に立つので、お近は一と足おくれて帰って来て、そっと音羽の屋敷に忍び込んだ。
一種の治外法権《ちがいほうけん》ともいうべき旗本屋敷に潜伏して、無事に月日を送っていれば、容易に町方《まちかた》の眼にも触れなかったのであるが、お近は江戸へ帰ると、間もなく更に新らしい恋人を見つけ出した。それは白魚河岸の吉田の次男幸之助である。吉田と佐藤とは母方の縁を引いている関係から双方が親しく交際していたので、お近も自然に幸之助と親しくなって、佐藤の眼をぬすんで新らしい恋人と逢曳きするようになったが、男は女よりも八歳の年下であるので、若い恋人に対するお近の愛情は猛火のように燃えあがった。彼女は男を逃がさない手段として、自分の秘密を幸之助に打ち明けて、万一変心するときは隠居殺しの共謀者としてお前を抱いてゆくと嚇した。こんにちと違って、この時代には斯《こ》ういう威嚇が案外に有効であったのである。たとい自分の無実が証明されるとしても、こんな女のかかり合いで奉行所の審問《しんもん》を受けたなどと云うことが世間に暴露《ばくろ》すれば、長い一生を暗黒に葬らなければならない。年の若い幸之助は飛んだ者にかかり合ったのを悔みながら、お近の威嚇を恐れてともかくもその意に従っていた。
そのうちに黒沼伝兵衛の横死事件が起こった。かねて許嫁《いいなずけ》のような関係になっているので、幸之助は黒沼のむすめお勝の婿と定められて、音羽の御賄屋敷へ来ることになった。お近は恋人が近所へ来たのを喜んで、火の番の藤助の家をその逢曳きの場所と定めて幸之助をよび出していた。一方にはお近があり、一方にはまだ祝言こそしないがお勝という正式の妻もありながら、意思の弱い幸之助はさらに隣家の瓜生の娘お北と新らしい関係を結ぶようになったので、一人の男をめぐる女三人の関係が甚だ複雑になった。しょせん無事には済むまいとは知りながら、幸之助も今更どうすることも出来なかった。
ここで住職祐道に就いて語らなければならない。彼は実はお近と同じ腹の兄であった。祐道が長男で、その次に女ひとり、男ひとり、お近は末子《ばっし》の四人|兄妹《きょうだい》であったが、幼年のころに両親に死に別れて、皆それぞれ艱苦《かんく》を嘗《な》めた。なかの男と女は早く死んで、祐道とお近だけが残った。祐道は幼い頃から深川の或る寺の小僧となって、一心に修行を積んだ末に、この音羽でも相当に由緒ある寺の住職となったのであるが、妹のお近は深川の芸妓に売られて、いわゆる泥水を飲む商売となった。しかも運命は不思議なもので、この寺の近所に住む佐藤孫四郎とお近とが一種の悪因縁を結ぶことになって、お近は主殺しの大罪を犯したのである。
祐道は妹の罪を悔み嘆いて、彼女が再び江戸へ帰るのを待ち受けて、いさぎよく自首するように説き聞かせたが、この世に未練の多いお近は泣いて拒《こば》んだ。いっそ召連れ訴えをしようかとも思ったが、幼い時から共に苦労をして来た妹が自分の眼のまえに泣いている姿を見ると、祐道のこころもさすがに弱くなった。み仏に対して済まぬ事とは万々知りながら、彼は罪ある妹をそのまま見逃《みの》がして置くことにしたが、心は絶えずその呵責《かしゃく》に苦しめられていると、妹はさらに第二、第三の罪をかさねた。
寺社奉行の訊問に対して、祐道の申し立てたところによると、去年の秋以来、暗夜に白い蝶を飛ばしたのはお近の仕業《しわざ》であると云うのである。お近はなぜそんな怪しいことを企てたか。何分にも死人に口無しで、単に祐道の片口《かたくち》に拠《よ》るのほかは無いのであるが、彼は左
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