た。
「さては今井|氏《うじ》、貴公がこの長三郎を案内して来たのだな」
「いや、違う、長三郎は勝手に来たのだ」
「いや、そうでない。貴公らが申し合わせて、この幸之助を罠《わな》に掛けようとするのだ。その手は喰わないぞ」
幸之助はもう亢奮《こうふん》して、誰彼れの見さかいも無くなったらしい。誰を相手ということも無しに、腰の刀をすらりと抜き放した。
「これ何をするのだ」と、理右衛門は制した。「取り逆上《のぼ》せてはいけない。まあ、鎮まれ、鎮まれ。どうも困った気ちがいだ」
「むむ、気ちがいだ」と、幸之助はいよいよ哮《たけ》った。「こうなれば誰でも相手だ、さあ、来い」
理右衛門を相手にするには、少しく距離が遠いので、彼はまず手近かの長三郎を相手にするつもりであったらしい。突然向き直って長三郎に斬ってかかった。長三郎はこころえて身をかわしたが、それと同時に、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]という女の悲鳴がきこえた。
二挺の早駕籠が宙を飛ばせて来て、ここの門口《かどぐち》に停まった。
お冬は長三郎の身代りに斬られたのである。彼女は男のあとを追って来て、門口に様子を窺っていたのであるが、幸之助との掛け合いがむずかしくなって、相手が腰の物を抜き放したので、彼女も一種の不安を感じて男を庇うために進み入った時に、逆上《のぼ》せあがった幸之助の刃《やいば》に触れたのであろう。長三郎を撃ち損じた切っさきに、彼女は左の頸筋を斬られて、男の足もとに倒れた。
それと見て、長三郎も刀をぬいて身構えする間もなく、理右衛門は駈けよって、幸之助をうしろから抱きすくめた。
「抜き合わせてはならぬ。待て、待て」と、彼は長三郎に声をかけた。
半狂乱の幸之助は哮《たけ》り狂って、抱かれている腕を振り放そうと燥《あせ》っているところへ、二人の男がはいって来た。岡っ引の吉五郎と兼松である。
「今井の旦那様。それはわたくし共にお渡しを願います」と、吉五郎は十手を把《と》り直しながら声をかけた。
「吉五郎か」と、理右衛門は猶《なお》も幸之助を抱きすくめながら耳に口をよせて云った。「幸之助、覚悟しろ。もう逃げる道はないぞ。侍らしく観念しろ。判ったか」
侍らしくという言葉に責められたのか、十手を持った二人が眼のまえに立ち塞がっているのに気怯《きおく》れがしたのか、もう逃《の》がれる道はないと諦めたのか、さすがの幸之助も俄かにおとなしくなって、持っている血刀をからりと投げ捨てて、理右衛門に抱かれたままで土の上に坐った。
「吉田の親たちに頼まれて、因果をふくめて腹を切らせようと思って来たのだが、もう遅かった」と、理右衛門は嘆息しながら云った。「こうなっては仕方がない。幸之助、尋常に曳かれて行って、御法《ごほう》の通りになれ」
幸之助は疲れ切ったように、無言で頭《こうべ》を垂れていると、長三郎は待ち兼ねたように訊いた。
「姉もここに居りますか」
「いや」と、理右衛門は頭《かぶり》をふった。「さっきも云う通り、姉はここにいない。幸之助ばかりだ」
「もし、瓜生の若旦那」と、吉五郎は喙《くち》をいれた。「あなたのお姉さまは……死骸になって江戸川から……」
「江戸川から……」と、長三郎は思わず叫んだ。
理右衛門も幸之助も思い思いの心持で、悲痛の溜め息を洩らした。それに無関心であるのは片眼の少女ばかりで、彼女は幸之助のひと太刀に若い命を断たれて、しかも満足そうに其処に横たわっていた。故意か偶然か、彼女の片手は長三郎の袴の裾を掴んでいた。
一五
それから四日の後、音羽の旗本佐藤孫四郎は町奉行所へ呼び出された。寺の住職祐道は寺社奉行の名によって同じく呼び出された。祐道は出頭したが、孫四郎はその前夜に急病頓死という届け出があった。表向きは急病と云うのであるが、その死の自殺であることは後に判った。
お近という女の死骸も江戸川に浮きあがった。吉五郎の鑑定通り、寺内で殺された女はやはりこのお近であった。
中間の鉄造が吉五郎の罠にかかって、自分の知っている限りの秘密を口走った結果、黒沼幸之助のかくれ家が露顕《ろけん》したので、吉五郎は子分の兼松と共に、早駕籠を飛ばせて向島の堤下へ駈け付けたことは、前に記《しる》した通りである。幸之助ももう観念したとみえて、これも自分の知っている限りの秘密をいっさい申し立てた。
祐道もさすがは出家だけあって、この期《ご》に及んでは悪びれずにいっさいを自白した。その他のお近、お冬、お北らはみな死んでいるので、女の側の事情はよく判らない点もあったが、ともかくも幸之助、祐道らの口供《こうきょう》を綜合して判断を下だすと、この事件の真相はまずは斯《こ》う認めるのほかは無かった。
お近は前名をお亀といって、むかしは深川に芸妓勤めをしていた女である。それが
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