から、ゆうべから方々をうろ付いていました」
「お前はゆうべ、わたしを姉さんのところへ連れて行ってやると云ったが、本当か」
 お冬はだまった。
「嘘か」と、長三郎は詰《なじ》るように云った。
「連れて行くと云ったのは嘘ですけれど……。お姉さんの居る所は知っています」
「知っているなら教えてくれ」
 お冬は男の顔を見つめながら黙っていた。
「おまえは当ても無しにここらへ来たのか」と、長三郎は訊いた。
「もし自分のからだが危くなったら向島へ行けと、お父《とっ》さんに云い聞かされているので……」
「向島の……なんという所へ行くのだ」
「五兵衛という植木屋の家《うち》です」
「そこに姉さんも幸之助もいるのか」
 お冬は答えなかった。
「そうして、その五兵衛の家は知れたのか」
「ここらへは滅多に来たことが無いので、路に迷って四つ木の方へ行ってしまって、お午《ひる》頃にここまで引っ返して来ましたが、くたびれたのと眠いのとで、さっきから此の小屋へはいって寝ていました」
「では、その家は見付からないのか」と、長三郎は失望したように云った。
「これからあなたと一緒に探しましょう」と、お冬はその野生を発揮したように、いよいよ無遠慮に男の手を把《と》った。
 こんな女に係り合っていて、理右衛門のすがたを見失ってはならないと思ったので、長三郎は把られた手を振り払って小屋の外へ出ると、ひと筋道の田圃には侍のうしろ姿が遠く見えた。それを慕って歩き出すと、田圃に沿うて小さい田川が流れている。その田川が右へ曲がったところに狭い板を渡して、一軒の藁葺《わらぶき》の家が見いだされた。周囲は田畑で、となりに遠い一軒家である。型ばかりのあらい籬《まがき》を結いまわして、あき地もないほどにたくさんの樹木が植え込んであるので、それが植木屋ではないかと長三郎は思った。門《かど》には一本の大きい桃が紅《あか》く咲いていた。
 理右衛門はそこに立ち停まって、一旦うしろを振り返ったが、やがて狭い板を渡って内へはいった。それを見とどけて、長三郎は足早にあるき出すと、お冬もあとから付いて来た。
「気をおつけなさい。あの侍はあなたを見たかも知れませんよ」と、彼女は小声で注意した。
 長三郎はそんなことに頓着《とんぢゃく》していられなかった。彼は再びお冬をふり切って、一軒家を目ざして駈け出して、やがて門前へ行き着いて少しく躊躇した。理右衛門はともあれ、自分はここの家になんのゆかりも無いのであるから、案内も無しにつかつかと踏み込むわけには行かない。迂闊《うかつ》に案内を求めたらば、相手にさとられて取り逃がす虞《おそ》れが無いとも云えない。彼は桃の木の下に立って、どうしたものかと思案していると、内から五十前後の女が出て来て、若い侍を不安らしくじろじろと眺めていた。長三郎も黙っていると、やがて女は怪しむように声をかけた。
「あなたはどなたでございます」
 なんと云っていいかと、長三郎はまた躊躇したが、思い切って訊き返した。
「今ここの家へ武家がはいったろうな」
「いいえ」
「このあいだから若い男と女が来ているだろうな」
「いいえ」
「誰も来ていないか」
「そんな方はどなたもお出でになりません」と、女は素気《そっけ》なく答えた。
「隠すな。私はその人たちに用があって、わざわざ音羽の方から尋ねて来たのだ」
 この押し問答のうちに、入口にむかった肘掛け窓をほそ目にあけて、竹格子のあいだから表を覗いていたらしい一人の男が、大小をさして、草履を突っかけて、門口《かどぐち》にその姿をあらわした。それが黒沼の幸之助であることを認めた時に、長三郎は尋ねる仇にめぐり逢ったように感じた。
「長三郎、貴公は何しに来た」と、幸之助は眼を嶮《けわ》しくして云った。
「姉を探しに来ました」と、長三郎は悪びれずに答えた。
「姉はいない」
「きっと居ませんか」
「居ない。帰れ、帰れ」
「帰りません。姉を渡して下さい」
「姉はいないと云うのに……。強情《ごうじょう》な奴だな」
「ここにいなければ、どこにいるか教えてください」と、長三郎は一と足進み寄って訊いた。
「貴様……。眼の色をかえてどうしようと云うのだ」
 そういう幸之助の眼の色もかわっていた。強《し》いて手向かいすれば斬ってしまえと、父からかねて云い付けられているので、長三郎は一寸も退《ひ》かなかった。彼は迫るように又訊いた。
「姉はここにいるか、さもなければ、あなたが何処へか隠してある筈です。教えて下さい」
「知らない、知らない」と、幸之助は罵るように云った。
 双方の声がだんだんに高くなったので、内から又ひとりの侍が出て来た。それは理右衛門であった。
「喧嘩をしてはいけない。双方とも待て、待て」と、彼はうしろから声をかけた。
 その声を聞くと、幸之助は俄かに向き直っ
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