彼岸参りの人を待つかのように何となく賑わっていた。寺門前の花屋の店さきにも樒《しきみ》がたくさん積んであった。それを横眼に見ながら、長三郎は綾瀬村の方角をさして堤下を急いでゆくと、堤の細路を降りて来る一人の侍に出逢った。侍は長三郎に声をかけた。
「瓜生の御子息ではないか」
 呼ばれて見かえると、それは鯛の御納屋の今井理右衛門であった。瓜生の家と今井の家とは直接の交際はなかったが、同じ御納屋の役人同士であるから、今井と白魚河岸の吉田とは無論に懇意であった。その吉田と御賄屋敷の黒沼とは親戚関係であるので、瓜生の家でも自然に吉田を識り、それから惹《ひ》いて今井をも識るようになったのである。長三郎もその人を見て会釈すると、理右衛門は笑いながら訊いた。
「どこへ行かれる。御墓参かな」
「いえ。綾瀬村まで……親類かたへ参ります」
「それは御苦労。わたしは墓参で白髯《しらひげ》の辺まで行く。屋敷を遅く出たので、帰りは日が暮れるかも知れない。寺の遠いのは少し難儀だな……」と、理右衛門はまた笑った。
 綾瀬へゆく人、白髯へゆく人、勿論おなじ方角であるので、二人は列《なら》んで歩き出した。
「ゆうべの空模様では雨になるかと思ったら、思いのほかにのどかな日和《ひより》になった。堤の桜の咲くのももう直《じ》きだ」と、理右衛門は晴れた空を仰ぎながら云った。「して、綾瀬の親類へはなんの用で……。遊びに行くのかな」
「いえ」とは云ったが、長三郎は少し返事に困った。
「もしや姉さんを尋《たず》ねているのではないかな」と、理右衛門は小声で訊いた。
 理右衛門がどうしてそれを知っているかと、長三郎は一旦おどろいたが、彼が白魚河岸の吉田と懇意である以上、そこから幸之助や姉の家出一件を聞き知っているのであろうと察したので、長三郎は正直に答えた。
「実は少し心配のことがありますので……」
「むむ。その件については白魚河岸でも心配しているようだ」と、理右衛門はうなずいた。
「きのうも私が日本橋をあるいていると、岡っ引の吉五郎が私を呼び留めて、吉田の家《うち》のことを訊いていたが、あいつも今度の一件についての何かの探索をしているらしい。どうか大事になってくれなければいいが……。そこで余計なことを云うようだが、これから綾瀬まではなかなか遠い。わざわざ尋ねて行っても無駄かも知れないぞ」
「無駄でしょうか」と、長三郎は相手の顔をみあげた。
「春の日が長いと云っても、綾瀬まで往復しては、どうしても暗くなるだろう」
「暗くなるのは構いませんが、行っても無駄でしょうか」と、長三郎は念を押した。
「無駄らしいな」
「では、あなたは姉の居どころを御存じなのですか」
「いや、知らない。わたしは知らない」と、理右衛門は迷惑そうに答えた。「だが、こんな遠方へは来ていそうもない。燈台|下暗《もとくら》しと世のたとえにも云う通り、尋ね物というものは案外手近にいるものだ」
 その口ぶりが何かの秘密を知っているらしいので、長三郎の胸はおどった。彼はあまえるように理右衛門に訊いた。
「あなたは御存じなのでしょう。どうぞ教えてください。幸之助はともかくも、姉の居どころだけを教えて下さい。お願いです」
「いや、知らない。まったく知らない」と、理右衛門はいよいよ迷惑そうに云った。「わたしはただ燈台下暗しという世のたとえを云ったまでだ。ともかくもここまで踏み出して来たのだから、無駄と思って綾瀬まで行ってみるのもいいかも知れない。綾瀬へはこれから真っ直ぐだ。わたしはこれから右へ切れるから、ここで別れるとしよう」
 理右衛門は俄かに右へ切れて、田圃路《たんぼみち》を足早に立ち去った。
 その逃げるような態度といい、さっきからの口ぶりといい、一種の疑念が長三郎の胸に湧いたので、彼も見えがくれに理右衛門のあとを尾《つ》けて行こうと思った。しかも直ぐに歩き出しては、相手に覚られる虞《おそ》れがあるので、暫くやり過ごしてからの事にしようと思案して、立ち停まって其処らを見まわすと、路ばたに小さい掛茶屋があった。
 花見の時節ももう近づいたので、ここらの農家の者が急拵えの店を作ったらしいが、まだ商売を始めているわけではなく、ほんの型ばかりの小屋になっている。その小屋に隠れるつもりで長三郎は何ごころなく踏み込むと、そこに立てかけてある古い葭簀《よしず》のかげから人が現われた。
 不意におどろかされて長三郎は思わず立ちすくむと、人は若い女で、かのお冬であった。時も時、場所も場所、ここでお冬に出逢って、長三郎は又おどろかされた。彼は無言で屹《きっ》と睨んでいると、お冬は無遠慮に摺り寄って来た。その片眼は異様にかがやいていた。
「若旦那。又ここでお目にかかりました」
「どうしてこんな所に来ている」
「もう自分の家《うち》へも帰れません
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