もう斯うなったら仕方がねえ。方々に迷惑する人が出来るのだ。おめえも覚悟していてくれ」
「嚇《おど》かしちゃあいけねえ。おれはなんにも知らねえと云うのに……」と、鉄造は少しく弱い音をふき出した。
「おれは別に覚悟するほどの悪いことをしやあしねえ」
「これだけ云っても、おめえに判らなけりゃあ、もういいや。そんな野暮な話は止めにして、まあゆっくりと飲むとしようぜ」
 吉五郎は手をたたいて酒の代りを頼んだ。肴もあつらえた。そうして、無言で酌をしてやると、鉄造もだまって飲んだ。吉五郎も黙って飲んだ。二人はややしばらく無言で猪口のやり取りをしていた。ただ時々に吉五郎は睨むように相手の顔を見た。鉄造も偸《ぬす》むように相手の顔色を窺った。
 云うまでもなく、これは一種の精神的|拷問《ごうもん》である。こうして無言の時を移しているあいだに、うしろ暗い人間はだんだんに弱って来て、果ては堪えられなくなるのである。元来が図太い人間は、更にそのあいだに度胸を据え直すという術《すべ》もあるが、大抵の人間はこの無言の責め苦に堪え切れないで、結局は屈伏することになる。鉄造もこの拷問に堪えられなくなって来たらしく、手酌でむやみに飲みはじめた。
 相手が思う壺にはまって来たらしいのを見て、吉五郎はいよいよ沈黙をつづけていると、鉄造も黙って飲んでいた。代りの徳利が三、四本も列べられた。
「どういうものか、きょうは酔わねえ」と、鉄造はひとり言のように云いながら、吉五郎の顔を見た。
 吉五郎はじろりと見返ったが、やはり黙っていた。鉄造も黙って又飲んでいたが、やがて再び口を切った。
「おめえはもう飲まねえのか」
 吉五郎は答えなかった。鉄造も黙って又飲んだが、やがて更に云い出した。
「おい、おれ一人で飲んでいちゃあ、なんだか寂しくっていけねえ。おめえも飲まねえかよ」
 吉五郎はやはり答えなかった。鉄造も黙って手酌で又飲んだが、徳利や猪口《ちょこ》を持つ手が次第にふるえ出した。彼は訴えるように云った。
「おい。なんとか返事をしてくれねえかよ。寂しくっていけねえ」
 吉五郎は再びじろりと見返ったままで答えなかった。鉄造は彼自身も云う通り、きょうは全く酔わないのであろう、むしろ反対にその顔はいよいよ蒼ざめて来た。泣くように又訴えた。
「おい。おめえはなぜ黙っているんだよ」
「そりゃあこっちで云うことだ」と、吉五郎は初めて口を切った。「おめえはなぜ黙っているんだよ」
「黙っていやあしねえ。おめえが黙っているんだ」
「それじゃあ俺の訊くことを、なぜ云わねえ」と、吉五郎は鋭く睨み付けた。
「だって、なんにも知らねえんだ」と、鉄造は吃りながら云った。
「きっと知らねえか。知らなけりゃあ訊かねえまでのことだ。おれも黙っているから、おめえも黙っていろ」
「もう黙っちゃあいられねえ」
「それじゃあ云うか」
「云うよ、云うよ」と、鉄造は悲鳴に近い声をあげた。
「嘘をつくなよ」
「嘘はつかねえ。みんな云うよ」
「まあ、待て」
 吉五郎は立って、階子《はしご》の下をちょっと覗いたが、引っ返して来て再び鉄造とむかい合った。
「さあ、おれの方からは一々訊かねえ。おめえの知っているだけのことを残らず云ってしまえ」
 初めの喧嘩腰とは打ってかわって、鉄造はもろくも敵のまえに兜《かぶと》をぬいだ。それでも彼はまだ未練らしく云った。
「おれがべらべらしゃべってしまった後で、おめえは俺をどうするんだ」
「どうもしねえ、助けてやるよ」
「助けてくれるか」
 鉄造はほっ[#「ほっ」に傍点]としたような顔をした。吉五郎は彼に勇気を付けるために、徳利を取って酌をしてやった。

     一四

 姉のお北の死骸が江戸川に浮かびあがった時、弟の瓜生長三郎は向島の堤下《どてした》をあるいていた。
 彼はきのうも姉のゆくえを尋ねあるいて、本所まで来たのであるが、日が暮れたので途中から帰った。そうして、親子相談の末、きょうも、長三郎は小松川から小梅、綾瀬、千住の方面に向かい、父の長八も非番であるので、これは山の手の方角に向かうことになった。今と違って、その時代の人々は親類縁者の義理をかかさず、それからそれへと遠縁の者までもふだんの交遊をしているので、こういう場合には心当たりがすこぶる多く、殊に交通不便の時代であるから、親類縁者を一巡さがし廻るだけでも容易でなかった。
 長三郎はまず小松川と小梅の縁者をたずねると、どこにも姉のすがたは見えなかった。かえって先方では寝耳に水の家出沙汰におどろかされて、長三郎にむかって前後の事情などを詳《くわ》しく詮議した。それらのために案外に暇取って、小梅を出たのは、もう七ツ(午後四時)を過ぎた頃であった。
 旧暦の二月なかばであるから、春の彼岸《ひがん》ももう近づいて、寺の多い小梅のあたりは
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