いが、留吉はゆうべの一件を思い合わせて、この糸屑にも何かの仔細があるらしく疑われたので、あたりを窺いながらそっと自分の袂に忍ばせた。
 庭さきに余り長く徘徊《はいかい》していて、他の僧らに怪しまれては何かの邪魔であると思ったので、留吉は縁側に這いあがって、再び元の寝床の上に坐っていると、やがて小坊主が朝飯を運んで来て、きょうは起きられるかと訊いたので、どうにか起きられるようにはなったが、まだ手足の自由が利かないから、迎いの駕籠の来るまでは斯《こ》うして置いてくれと、留吉は頼んだ。小坊主はこころよく承知して、どうぞごゆっくりと答えて去った。
 午《ひる》に近い頃に、吉五郎は迎いの駕籠を吊らせて来て、納所坊主や寺男に礼を云って、留吉を受け取って出た。出るときに、吉五郎は寺男の弥七に幾らかの銀《かね》をつつんでやった。
「親分。不動さまの境内《けいだい》まで駕籠をやってください」と、留吉は小声で云った。
 駕籠は音羽の大通りへ出ないで反対の方角にむかって目白坂をのぼった。不動の門前に駕籠をおろさせて、駕籠屋をそこに待たせて置いて、留吉は親分に扶《たす》けられながら門内にはいったが、人目を憚《はばか》る彼等は、客をよぶ掛茶屋をよそに見て、鐘撞堂の石垣のかげに立った。
「どうだ、留。早速だが、なにか種は挙がったか」と、吉五郎は頬かむりの顔をすり寄せて訊いた。
「別に面白いこともありませんでしたが……。でも、一つ二つ……」
 留吉は先ず夜なかの格闘の一件を話した。それから彼《か》の糸屑を出してみせると、吉五郎は一と目見て笑い出した。
「はは、これだ、これだ。実はこの菅糸をおれも見たよ」
「どこで見ました」
「江戸川橋の上で……。ゆうべおめえに別れてから、風の吹くなかを帰って行くと、橋の上で火の番の娘を見つけたんだ」
「お冬があんな所をうろついていましたか」
「一旦ここを逃げてから、どこをどう迂路《うろ》ついていたのか知らねえが、橋の上で若い侍と話していて、おれの足音を聞きつけると直ぐにまた逃げてしまった」
「その侍は何者です」
「その侍は御賄組の瓜生長三郎……。このごろ家出をしたお北という娘の弟だ。いや、それはまあ後《あと》のことにして、おれがその侍と話しているうちに、一つの白い蝶々がひらひらと舞いあがった」
「ふうむ。白い蝶々が又出ましたかえ」と、留吉も眼をみはった。
「おれの鑑定《かんてい》では、お冬の袂から地面に一旦落ちたのを、強い風に吹きあげられて……。まあ、そう思うより仕方がねえ」と、吉五郎は説明した。「侍の持っている提灯の火で透かして視ると、その蝶々には細い糸が付いている……。細くって、光っているのを見ると、これだ、この菅糸だ。中途で切れたと見えて、やっぱり七、八寸ぐらいしか付いていなかったが、おれの眼には確かに菅糸と見えたんだ」
「その蝶々はどうしました」
「つかまえようと思ううちに、風の吹きまわしで川のなかへ落ちてしまったが、蝶々も生き物じゃあねえ、薄い紙か絹のような物で上手に拵《こしら》えたんだろうと思う。暗いなかで光るのは、羽《はね》に何かの薬が塗ってあるんだな。早く云えばお化けのような物だ」
 この時代には、子供の玩具《おもちゃ》に「お化け」と云うものがあった。燐のたぐいを用いたもので、それを水に溶かして人家の板塀または土蔵の白壁などに幽霊や大入道のすがたを書いて置くと、昼ははっきりと見えないが、暗い夜にはその姿が浮いたように光って見えるのである。もちろん、子供の幼稚な悪戯《いたずら》に過ぎないので、それに驚かされる者は少ないのであるが、気の弱い娘子供などは、やはりこの「お化け」を恐れ嫌った。怪しい蝶が闇夜に光るのは、それに類似の手段を用いたのであろうと、吉五郎はひそかに想像していたのであった。
「そうかも知れませんね」と、留吉もうなずいた。「さもなけりゃあ、寒い時節に蝶々の飛び出す筈がありませんからね」
「そこで、その蝶々がどうして飛ぶか……。拵え物を飛ばせる以上、誰か糸を引く奴がなけりゃあならねえ。おれがだんだん調べてみると、その蝶々が飛び出すのは風の吹く晩に限っているらしい。そうなると、いよいよ怪しい。といって、小さい蝶々を飛ばせるには、どんな糸を使うのか、それとも何かの機関《からくり》仕掛けにでもなっているのか。おれは上野の烏凧《からすだこ》から考えて、多分この菅糸を使うんだろうと鑑定していた。おめえも知っているだろう。花どきになると、上野じゃあ菅糸の凧を売っている。薄黒いから烏凧というのだ。あの凧は紙が薄い上に、糸が極細《ごくぼそ》の菅糸だから風のない日でもよくあがる。今度の蝶々にも菅糸をつけて、風の吹く晩に飛ばせるんだろう。そうして、暗い晩を狙ってやりゃあ自分の姿はみえねえ、蝶々だけが光る……。まあ、こん
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