された。かれらは得物《えもの》を取って闘っているのでなく、空手《からて》の掴み合いであるらしかった。
 夜ふけの寺の庭さきで、男と女が息を切って掴み合い、むしり合っている。それだけでも唯事ではない。留吉は雨戸の隙間《すきま》から覗いてみようと燥《あせ》ったが、何分にも戸締まりが厳重に出来ている上に、長い縁側の戸袋《とぶくろ》は遠いところにあるので、そこまで這って行って雨戸を繰り明けるのは容易ではなかった。よんどころなく雨戸の隙間に耳を押し付けて、一心に外の物音を聴き澄ましていると、その物音は吹き消されたように忽ち鎮まって、風の音のほかには何んにも聞こえなくなった。
 留吉は不思議に思った。なんだか気味が悪いようにも感じた。今まで聞こえていた物音は自分の空耳《そらみみ》であったのか、あれほどの格闘《かくとう》が俄かにひっそりと鎮まる筈がない。一方が倒れたならば、尚更その物音がきこえる筈であるのに、何事も無しに忽ち鎮まってしまうのは可怪《おか》しい。しかも自分の耳にきこえたのは、風音でもなく、木の葉の摺れ合う音でもなく、たしかに人と人とが挑み合う音であった。
「変だぞ」
 暫く縁側に這い屈《かが》んで、留吉は外の様子を窺っていたが、怪しい物音は再び聞こえなかった。根負けがして寝床へ戻ったが、彼はいよいよ眼が冴えて眠られなかった。
 どうで夜明かしと度胸を決めているのであるから、眠られぬのは平気であったが、今夜の出来事について彼はいろいろに考えさせられた。男は誰か、女は何者か、なんのわけで夜更けに庭さきで、掴み合っていたのか。自分もその物音を聞いたばかりで、その正体を見とどけないのであるから、物に馴れている留吉にも見当《けんとう》が付かなかった。
 張り詰めている気もゆるんで、彼は暁け方から思わずうとうとと眠った。再び眼をあくと、いつの間にか雨戸は開け放されて、縁さきには朝の光りが流れ込んでいた。手足のまだ痛むのを堪《こら》えながら、留吉は寝床の上に起き直ると、枕もとの煙草盆には新らしい火が入れてあった。自分の寝ているうちに、小坊主が覗きに来たものと見える。彼は自分の油断を後悔しながら、不自由の手で煙草を一服すった。
「寝首を掻かれねえのが仕合わせだった」と、彼は独りで苦笑《にがわら》いした。
 寺では寝巻を貸してやろうと云ったのを断わって、彼はゆうべからごろ寝をしていたので、そのまま這い起きて羽織をかさねた。例の物音が気になるので、彼はそっと縁側へ出てみると、庭さきはもう綺麗に掃いてあって、そこで掴み合いのあったらしい形跡は残されていなかった。それでも彼は庭下駄を突っかけて、覚束《おぼつか》ない足どりで庭に降りた。
 ゆうべの風はいつか吹きやんで、今朝はうららかに晴れていた。庭のまん中にある桜の大樹も、もうひと雨でほころびそうに紅《あか》らんで、春をよろこぶ小鳥の声が賑やかに聞こえた。よく見ると、その木の下には古い苔《こけ》を踏み荒らした足跡が残っている。怪しい物音は自分の空耳《そらみみ》でなかったことを確かめて、留吉は又もや独りで笑いながら、身を屈《かが》めてそこらあたりを見まわしたが、別にこれぞという物も見いだされなかった。
 痛むからだを我慢して、さらに墓場の方へ行きかかる時、ふと見かえると住職の祐道が法衣《ころも》すがたで自分のうしろに突っ立っていたので、留吉はすこし慌てながら挨拶すると、祐道はその蒼ざめた顔に笑みを含みながら云った。
「お痛み所はいかがですな」
「おかげさまで、よほど楽になりました」
「それは結構でござる。まあ、ご大切になさい。昨夜も申し上げた通り、わたしも風邪《かぜ》で引き籠って居りましたが、今朝はよんどころない法用で唯今から外出いたします。吉五郎どのが見えましたらば、宜しくお伝えください」
「行ってらっしゃい」と、留吉も丁寧に会釈した。
「では、御免」
 祐道はそのまま立ち去った。そのうしろ姿が植え込みの八つ手の大きな葉かげに隠れるのを見送っているうちに、八つ手の葉が二、三枚新らしく折れているらしいのが留吉の眼についた。近寄って見ると、下葉は果たして折れていた。しかも何者かが無理に掴んで引き折ったらしく見えた。おそらく昨夜の格闘の際に、一方の相手が何かのはずみに下葉を掴んだのであろう。そう思いながら更に見まわすと、その折れかかった下葉の裏に白い糸屑が引っかかっていた。早朝に掃除をした者も、さすがにそこまでは気がつかなかったらしい。留吉はその糸屑をとって、朝のひかりに透かしてみると、糸の長さは四、五寸で、俗に菅糸《すがいと》という極めて細いものであった。
 女の住んでいない寺中《じちゅう》では、僧侶が針や鋏を持つことが無いとも云えない。その糸屑が庭さきに散っていたとて、さのみ怪しむにも足らないかも知れな
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