た。
「あなたのような不人情な人はない、覚えておいでなさいよ」
 幸之助は何かなだめているらしかったが、その声はあまりに低いので聴き取れなかった。暫くして女の声がまた聞こえた。
「忌《いや》です、いやです。……もういつまでも瞞《だま》されちゃあいません。いいえ、いけません。あなたのような人は……。いいえ、忌です。唯は置かないから、覚悟しておいでなさい。……わたしは死んでも構わない。……あなたもきっと殺してやるから……」
 長三郎はおどろいた。その女はいったい何者で、幸之助になんの恨みを云っているのか。彼は息をつめて聴いていると女は嚇《おど》すように又云った。
「わたしの口ひとつで、あなたの命は無いと云う事は、かねて承知の筈じゃあありませんか。……黒沼家へ養子に行ったのは、まあ仕方がないとしても……。隣りの娘とまで仲よくして……。いいえ、知っています」
 幸之助は又もや何か云い訳をしているらしかったが、やはり表までは洩れきこえなかった。長三郎はすこしく焦《じ》れて、縁に近いところまでひと足ふた足進み寄ろうとする時に、うす暗い蔭からその袂をひく者があった。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として見かえると、それはお冬であるらしかった。
「およしなさい」と、女は小声で云った。
 それは果たしてお冬であった。
 不意に声をかけられて長三郎もやや躊躇していると、暗い家のなかでは人の動くような音がきこえた。お冬は再び長三郎の袖をつかんで、無理に引き戻すように桃の木のかげへ連れ込むと、何者かが縁さきへ出て来た。暗いなかでも見当が付いているらしく、直ぐに下駄を穿《は》いて表へ出てゆく姿を薄月に透かして視ると、それはすっきりとした痩形の女であった。この女が幸之助を恨み、幸之助を嚇《おど》していたのかと思ううちに、その姿は露路の外へ幽霊のように消えてしまった。
 長三郎もお冬も無言でそれを見送っているうちに、やがて又静かに縁を降りて来る者があった。それは幸之助で、なにか思案《しあん》しているような足取りで、力なげに表へ出て行くのを、長三郎は殆ど無意識に尾《つ》けて行こうとすると、お冬は又ひきとめた。
「およしなさい」
 なぜ止めるのか、長三郎には判らなかった。それを諭《さと》すように、お冬はささやいた。
「あの人たちは怖い人です」
 なぜ怖いのか、長三郎にはやはり判らなかった。しかし、かの女
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