ている。その見舞ながらに、姉のお北は殆ど毎日たずねて行く。勿論、隣家でもあり、ふだんから特別に懇意にしているのであるから、父も母も長三郎も別に不思議とも思わなかったのであるが、こうなると、お北が毎日の見舞もほかに意味があるらしく推量されないことも無い。
婿に来たとは云うものの、お勝が病気のために、幸之助はまだ祝言の式を挙げていない。そこへ姉が毎日入り込んで、幸之助と親しくする。しかもお冬の訴えによれば、ふたりは時々に目白坂下の寺門前で会合すると云う。それらの事情をあわせて考えると、一種の疑いがいよいよ色濃くなる。姉に限って、まさかにそんな事はと打ち消しながらも、長三郎は全然それを否定するわけには行かなくなった。
さりとて、父や母にむかって迂闊《うかつ》にそれを口外することは出来ない。いずれにしても更に真偽を確かめる必要があると思ったので、長三郎はきょうの発見についていっさい沈黙を守ることにした。お北もやがてあとから帰って来た。その話によると、音羽の大通りまで買物に出たのだと云うことであった。
音羽の通りへ買物に出たものが、横町の寺門前までわざわざ廻って行く筈がない。そんな嘘をつく以上は、姉の行動はいよいよ怪しいと、長三郎は思った。
それから二、三日の後である。長三郎が夕飯をすませてから、いつもの如くに夜学に出ると、四、五間さきをゆく男のうしろ姿が隣家の黒沼幸之助であることを、薄月のひかりで認めた。彼はどこへ行くのであろう。又もや姉を誘い出して、かの寺門前で密会《みっかい》するのではあるまいかと思うと、長三郎はそのあとを尾《つ》けてゆく気になった。彼は草履の音を忍ばせて、ひそかに幸之助の影を追ってゆくと、その影はかの横町の方角へはむかわずに、路ばたの狭い露路にはいった。
露路の奥には火の番の藤助の家がある。彼はその家をたずねるのか、それとも他の家をたずねるのか、長三郎は更に又新らしい興味に駆られて、つづいて露路のなかへ踏み込んだ。先日一度たずねた事があるので、長三郎は先ず藤助の家のまえに忍び寄って内の様子を窺うと、故意か偶然か、行燈《あんどう》の火は消えて一面の闇である。その暗いなかで女の声がきこえた。
それがお冬の声でないことを知った時に、長三郎はまた不思議に思った。女の声は低かったが、それでも力がこもっているので、外で聴いている者の耳にも切れぎれに響い
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