が「わたしの口ひとつで、あなたの命は無い」などと云ったのを考えると、それには恐ろしい秘密がひそんでいるらしくも想像された。
「なぜ怖いのだ」と、長三郎は訊いた。
「なんだか怖い人です。わたしのお父《とっ》さんもあの人たちに殺されたのかも知れません」と、お冬は声を忍ばせて、若い侍にすがり付いた。
その一刹那に、又もや一つの影が突然にあらわれた。暗いなかでよくは判らなかったが、猫のように縁の下から這い出して来たらしく、頬かむりをした町人ふうの男が足早に表へぬけ出して行った。彼は、まったく猫のように素捷《すばや》かった。
長三郎も意外であったが、お冬も意外であったらしく、身をすくめて長三郎にしがみ付いていた。家のなかは暗闇《くらやみ》であるが、外には薄月がさしている。それに照らし出された男のうしろ姿は、このあいだ江戸川橋で出逢った町人であるらしく思われたので、長三郎は又もや意外に感じた。と同時に、彼は殆ど無意識にお冬を突きのけて、その男のあとを追って出た。
薄月のひかりにうかがうと、女は大通りを北にむかって行く。幸之助はそのあとを追ってゆく。町人ふうの男は又そのあとを追って行くらしい。まだ宵であるから、両側の町屋も店をあけていて人通りもまばらにある。それを憚《はばか》って幸之助も直ぐに女に追いすがろうとはしない。男も相当の距離を取って尾《つ》けて行くので、長三郎もその真似をするように、おなじく相当の距離を置いて尾行することにした。
女は途中から左に切れて、灯の無い横町へはいってゆくと、左右は農家の畑地である。そこまで来ると、幸之助は俄かに足を早めて女のうしろから追い付いた。その足音をもちろん知っていたのだろうが、女は別に逃げようとする様子もなく、しずかに振り向いて相手と何か話しているらしかった。
町人はそれを見て、身をかくすように畑のなかに俯伏したので、長三郎もまた其の真似をして畑のなかに俯伏していると、やがて女は幸之助を突き放してふた足三足あるき出した。幸之助は追いかけて、女の襟に手をかけた。引き倒そうとするのか、喉《のど》でも絞めようとするのか、男と女は無言で挑《いど》み合っていた。
俯伏していた町人は畑のなかから飛び出して、飛鳥のごとくに駈け寄ると、それに驚かされて二つの影はたちまち離れた。女はあわてて逃げ去ろうとするのを、町人は駈け寄って押さえようとす
前へ
次へ
全83ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング