、男はかのしん吉であった。
「おい、しん吉、いくら江戸を離れていると云って、往来なかで見っともねえぜ」
 だしぬけに声をかけられて、しん吉は降り返った。格子さきの灯のひかり、彼は半七の顔をすかして視ると、俄かにおどろいて逃げ出そうとしたが、その利き腕はもう半七の片手につかまれていた。こうなっては逃げるすべもない。彼は無言の半七に引き摺られて、二、三軒さきのうす暗いところへ連れて行かれた。
「やい、しん吉、てめえは太てえ奴だ。坂町の伊豆屋の女房をかどわかして何処へやった。さあ、云え。てめえは伊豆屋の女房と諜《しめ》し合わせて、自分は前から釜屋に待っていて、闇祭りのくらやみに女房を連れて逃げたろう。おれはみんな知っているぞ、どうだ」
 しん吉は黙っていた。
「それにしても、伊豆屋の女房をどこへやった。もう三十八の大年増だ。まさかに宿場女郎にも売りゃあしめえ。あの女房をどこへ葬ったよ」
 しん吉はやはり答えなかった。彼は一生懸命に半七を突きのけて又逃げ出そうとするのを、背後《うしろ》からどんと突かれて、往来のまん中へ比目魚《ひらめ》のように俯伏して倒れた。
「縄にしますか」と、幸次郎はしん吉の襟首を捉えながら訊いた。
「むむ。柏屋へ連れて行け。逃がすな」
 縄つきのしん吉を幸次郎に預けて、半七と善八は友蔵の家へむかった。暗いなかにも目じるしの槐《えんじゅ》の大樹のかげに隠れて、二人は内の様子をうかがうと、内には女の忍び泣きの声がきこえた。毀《こわ》れかかった雨戸の隙間《すきま》から覗くと、うす暗い行燈の下に赤裸の女が細引のような物にくくられて転がされていた。女は破れ畳に白い顔を摺りつけて泣いているのを、友蔵はおもしろそうに眺めながら茶碗酒を呷《あお》っていた。
「あの女ですよ。さっき酌をしていたのは……。よもや幽霊じゃあありますめえ」と、善八は小声で云った。
「むむ。戸を叩け」と、半七は指図した。
「ごめんなさい。今晩は……」
 善八が戸をたたくと、友蔵は茶碗を下に置いて、表を睨みながら答えた。
「だれだ。今ごろ来たのは……」
「おれだよ。このあいだの鵜を買いに来たのだ」と、半七は云った。
「なに、鵜を買いに来た……」
「あの鵜を百両に買いに来たのだ」
「冗談云うな」
 とは云いながら、幾分の不安を感じたらしく、友蔵は身がまえしながら雨戸をあけに出た。その雨戸は内そとから
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