ここに濡れ草鞋をぬぐと、顔を見おぼえている宿の者は丁寧に案内して二階座敷へ通した。祭りの済んだ後といい、この天気に道中の旅びとも少ないとみえて、ここの二階はがら明きであった。
 このあいだの遊山旅《ゆさんたび》とは違うので、風呂にはいって夕飯を済ませた後に、半七は宿の亭主を二階へ呼びあげて、自分たちの身の上を明かした。
「この宿《しゅく》に釜屋という同商売があるね」
「はい。手前共から五、六軒さきでございます」
「すこし訊きたいことがあるから、釜屋の亭主を呼んで来てくれ」
「はい、はい」
 亭主はかしこまって、早々に釜屋の亭主文右衛門を呼んできた。文右衛門は四十五、六の篤実らしい男であった。江戸の御用聞きに呼び付けられて、彼は恐るおそる挨拶した。
「手前は釜屋文右衛門でございます。なにか御用でございましょうか」
「早速だが、この五日の闇祭りの晩に、おめえの店の女客が一人消えてなくなったそうだね。きょうでもう五日になる。まだなんにも手がかりはねえのかね」
「四谷坂町の伊豆屋のおかみさんが見えなくなりまして、手前共でも心配して居るのでございますが、まだなんにも手がかりがございませんので、実に困って居ります。なにぶんにも当夜は百四五十人の泊まり客で、二階も下もいっぱいの混雑、殊に火を消した暗闇の最中で、何がどうしたのか一向に判りません」と、文右衛門は云い訳らしく云った。
「そこで、その祭りの前の頃から、おめえの家《うち》に若い芸人が泊まっていなかったかね」
「はい。泊まって居りました。しん吉という江戸の落語家《はなしか》でございます」「いつ頃から泊まったね」
「しん吉さんは先月からこの近辺をまわって居りまして、ここでも東屋《あずまや》という茶屋旅籠屋の表二階で三晩ほど打ちました。一座の五人はそれから八王子の方へ行きましたが、しん吉さんは体が少し悪いと云うので、自分だけはあとに残って、先月の晦日《みそか》から手前共の二階に泊まって居りまして、闇祭りの日の午《ひる》すぎに、これから一座のあとを追って行くと云って立ちました」
「この宿《しゅく》はずれに友蔵という厄介者がいる筈だが、あれはどうしたな」と、半七はまた訊いた。
「友蔵は無事で居ります。これも先月の晦日ごろでございましょうか、江戸の方へ二、三日遊びに行ったとか申して居りましたが、唯今は帰って居りまして、現にきのうも手前
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