っかさんはもう声が出なかったそうで……。これはどうしても唯事でない。せがれは何処でか非業《ひごう》の最期を遂げたに相違ないと、おっかさんは半気違いのようになって自身番へ泣き込んで来たと云うわけさ。自身番だってどうすることも出来ない。お前があんまり心配するから、そんな夢を見たのだろうとか、夢は逆夢《さかゆめ》だとか云って、まあいい加減になだめているのだが、親ひとり子ひとりの伜にもしもの事があったら、あたしも生きちゃあいられないとか云って、おっかさんは泣いて騒いでいる。そのうちに大屋《おおや》さんが来て、無理になだめて引っ張って帰ったが、考えてみれば可哀そうでもあり、しん吉は一体どうしたのかねえ」
聴いている三人は顔を見あわせた。外には暗い雨が小歇《こや》みなく降っていた。
「なるほど怪談だ」と、善八は冷えた茶を飲みながら云った。「だが、自身番で云う通り、お袋があんまり心配しているので、せがれの夢を見たり、せがれの姿を見たりしたのだろう。そんな事とは知らねえで、しん吉の野郎、近在をまわってちっとふところが暖《あった》まったので、今頃どこかの宿場《しゅくば》でおもしろく浮かれているかも知れねえ。親不孝な野郎だ」
「おい、お仙。傘を出してくれ」
半七は立ちあがって帯を締め直した。
「どこへ行くの」
「しん吉のおふくろに逢って来る」
「親分。怪談を真《ま》に受けて行くのかえ」と、幸次郎は半七の顔をみあげた。
「真に受けても受けねえでも、ちっと思いあたることがある。おれの帰るまで、おめえ達は待っていてくれ」
降りしきる雨の中を、半七は隣り町へ出て行った。
五
その明くる朝、半七は八丁堀同心の屋敷へ顔を出して、かくかくの次第で四、五日は江戸を明けると云うことを届けた上で、朝の四ツ(午前十時)頃に府中をさして出発した。幸次郎も善八も一緒に出た。
幸いに強い雨ではなかったが、きょうもしとしと降りつづいている。先度《せんど》の小金井行きとは違って、三人は雨支度の旅すがたで、菅笠、道中合羽、脚絆、草鞋に身を固め、半七はふところに十手を忍ばせていた。道順も先度とは少し違って、上高井戸から烏山、金子、下布田、上布田、下石原、上石原、車返し、染屋と甲州街道を真っ直ぐにたどって、府中の宿に行き着いたのは、七ツ半(午後五時)を過ぎる頃であった。
宿屋は先度の柏屋で、三人は
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