。そこで先ず聞き込んだだけのことをお話し申しましょう」と、善八は云い出した。「和泉屋という家は店構えを見ても知られる通り、土地でも旧い店で、身代もしっかりしているという噂です。主人の久兵衛は五十ぐらい、女房のお大は後妻で三十四、五、先妻にも後妻にも子がないので、主人の甥の清七を養子に貰って、二十二の年まで育てて来ると、その清七は調布のお国と心中してしまったという訳です」
「清七は養子か」
「本来はおとなしい、手堅い人間だったそうですが、府中へ行った帰りに一と晩遊んだのが病み付きで、飛んだ事になったものだと、近所でも気の毒がっています。それから手代の幾次郎ですが、主人の遠縁の者だという事になっているが、実は番頭の息子だそうです。それにはちっと訳があるので……」
 今から二十年ほど前に、和泉屋の番頭勇蔵が入牢《じゅろう》した。それは紀州家か尾張家かへ納めた品々に、何か不正のことがあったと云うのである。その吟味中に勇蔵は牢死した。しかも世間の噂では、主人の罪を番頭がいっさい引き受けて、主人はなんにも知らない事に取りつくろったのであると云う。その忠義の番頭勇蔵のせがれが幾次郎で、当時はまだ二、三歳の子供であったのを、母のおみのが引き連れて、甲州の身寄りの方へ立ちのいた。もちろん和泉屋では相当の扶助をしてやったに相違ない。
 その幾次郎が八つか九つに成人した時に、恐らく前々からの約束があったのであろう。江戸へ出て来て旧主人の和泉屋に奉公することになった。表向きは遠縁の者だと云うことにして、主人も特別に眼をかけて使っていた。和泉屋に子が無いので、番頭の忠義に報いるために、或いはこの幾次郎を養子にするのでは無いかと云う者もあったが、その想像は外れて、主人の甥の清七が十三の年から貰われて来た。幾次郎はやはり奉公人として働いていて、彼が堅気の店の者に似合わず、稽古所ばいりをしたり、折りおりには新宿の遊女屋遊びをしたりするのを主人が大目《おおめ》に見ているのも、亡父の忠義を忘れない為であろう。たとい養子には据わらずとも、ゆくゆくは暖簾でも分けて貰って、一軒の店の主人になるであろう、と、昔を知るものは噂している。
「成程、幾次郎という奴には、そういう因縁があるのか」と、半七はうなずいた。「そこで、その幾次郎は相変らず店に働いているのか」
「きょうも店に坐っていました」と、云いかけて、善八
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