は少しく声を低めた。「近所の噂だけで、確かなことは判らねえのですが、和泉屋の女房は節句の晩あたりから家《うち》にいねえらしいと云うのです。もちろん和泉屋じゃあ内証にしていますが、店の小僧が使に出たとき、誰かにしゃべったそうで……」
「和泉屋の女房もいねえのか」と、半七も眼をひからせた。「節句の晩といえば府中の闇祭りの晩だ。その同じ晩に、伊豆屋の女房は府中で姿をかくし、和泉屋の女房は江戸で姿を隠す。いかに両方が知合いの仲だと云っても、まさかに女同士が誘い合わせて駈け落ちをしたわけでもあるめえ。妙な事になったものだな」
 女房二人のあいだに何かの係り合いがあるのか、但しは偶然の一致か、半七もその鑑定に苦しんだ。善八も黙って考えていた。
「ああ、降る、降る」
 ひとり言のように云いながら、幸次郎がはいって来た。
「どうだ。何かおもしれえ掘出し物があったか」と、彼は善八に訊いた。
「むむ、まず一と通りは判った」と、半七は引き取って答えた。「第一の聞き込みは、和泉屋の女房も闇祭りの晩に姿をかくしたと云うことだ」
「ふむう」と、幸次郎も眼を丸くした。「そりゃあおもしれえ。そこで親分。善ぱと違って、わっしの方にゃいい見付け物もありません。伊豆屋のことは大抵あの番頭の云った通りですが、近所で訊くと、伊豆屋の主人はお人好しの方で、お八重という女房が内外《うちと》のことを一人で切って廻している、いわば嚊天下《かかあでんか》の家だそうで、もう年頃の息子や娘がありながら、お八重は派手なこしらえで神詣りにもたびたび出て歩くという評判です」
「別に浮気をしているような噂もねえのか」と、半七は訊いた。
「そんな女だから何か不埒を働いていやあしねえかと思って、わっしもいろいろ探ってみましたが、そんな噂もねえようです。よっぽど上手にやっているんでしょうか」
「和泉屋の手代の幾次郎とおかしいと云う噂は聞かねえか」
「聞きませんね。よそでそんな噂があるんですか」
「そうでもねえが、まあ訊いてみたのだ」
 こう云って、半七はまた考えている処へ、女房のお仙が女中に鮨の大皿を運ばせて来た。どこからか届けて来たと云うのである。商売柄でこんな遣い物を貰うのは珍らしくない。すぐに茶をいれさせて、半七ら三人は鮨を喰いはじめると、そのそばで女房がこんなことを話し出した。
「わたしが今、お湯の帰りに自身番の前を通ると、雨
前へ 次へ
全26ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング