半七捕物帳
青山の仇討
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訥子《とっし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三代目瀬川|如皐《じょこう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)先ずほっ[#「ほっ」に傍点]として、
−−

     一

 読者もすでに御承知の通り、半七老人の話はとかくに芝居がかりである。尤も昔の探索は、幾らか芝居気が無くては出来なかったのかも知れない。したがって、この老人が芝居好きであることもしばしば紹介した。
 日清戦争が突発するふた月ほど前、明治二十七年五月の二十日過ぎである。例のごとく日曜日の朝から赤坂の宅へ推参すると、老人はきのう新富座を見物したと云った。
「新富は佐倉宗吾でしたね」
「そうです、そうです。九蔵の宗吾が評判がいいので見に行きましたよ。九蔵の宗吾と光然、訥子《とっし》の甚兵衛と幻《まぼろし》長吉、みんな好うござんしたよ。芝鶴《しかく》が加役《かやく》で宗吾の女房を勤めていましたが、これも案外の出来で、なるほど達者な役者だと思いました。中幕に嵯峨や御室の浄瑠璃がありましたが、九蔵の光国《みつくに》はほんのお附き合いという料簡で出ている。多賀之丞の滝夜叉《たきやしゃ》は不出来、これは散散でしたよ。なにしろ光国が肝腎の物語りをしないで、喜猿の鷲沼太郎とかいうのが名代《みょうだい》を勤めるという始末ですから、まじめに見てはいられません」
 老人が得意の劇評は滔々《とうとう》として容易に尽くるところを知らざる勢いであったが、それがひとしきり済むと、老人は更に話し出した。
「あの佐倉宗吾の芝居は三代目瀬川|如皐《じょこう》の作で、嘉永四年、猿若町《さるわかまち》の中村座の八月興行で、外題《げだい》は『東山桜荘子《ひがしやまさくらそうし》』といいました。その時代のことですから、本当の佐倉の事件として上演するわけには行きません。世界をかえて足利時代の芝居にしてあるのですが、渡し守甚兵衛と幻長吉が彦三郎、宗吾が小団次、宗吾の女房おみねが菊次郎、いずれも嵌《はま》り役で大評判、八月から九月、十月と三月も続いて打ち通しました。そこで、表向きは足利時代の事になっていますが、下総《しもうさ》の佐倉の一件を仕組んだのは誰でも知っているので、佐倉領のお百姓たちも見物のために江
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