りに姿が見えなくなったと云うのです。湯屋は一町ほど距《はな》れている山の湯という家《うち》で、番台のかみさんの話では確かに帰って行ったと云うのですが、それぎり米屋へは帰らない。そこで又、大騒ぎになっているのです」
「仕様がねえな」と、半七は舌打ちした。「土地馴れねえ者が独りで出歩くからいけねえ。だが、庄太。同じことを二度するものじゃあねえな。自然に人に感付かれるようになる」
「お前さんは感付きましたかえ」
「少し胸に浮かんだことがある。このあいだ米屋へ行った時に、おれの眼についたのは藤助という奴だ。越後か信州者だろうが、米搗きにしちゃあ垢抜けのした野郎だ。あいつの身許や行状を洗ってみろ」
「あいつが曲者《くせもの》ですか」
「曲者とも決まらないが、なんだか気に喰わねえ野郎だ。あいつは道楽者に違げえねえ。まあ、調べてみろ」
「かしこまりました」
「もう一人、あの米屋の若い者に銀八という奴がいる。あいつも変だから気をつけろ。それから如才《じょさい》もあるめえが、亀吉とでも相談して、新宿あたりの山女衒《やまぜげん》をあさってみろ。このごろ宿場の玉を売り込みに行った奴があるかも知れねえ」
「成程、わかりました」
庄太は忽々《そうそう》に出て行った。その日はほかによんどころない義理があって、半七は午頃から日本橋辺へ出かけたが、例の一件が気になるので、その帰り道に青山へ足を向けた。なんと云っても此の事件は、六道の辻のあたりが中心であるので、半七はそこらを一巡うろ付いた後に、烏茶屋に腰をかけた。
江戸時代の人は口が悪い。この茶店の女房の色が黒く、まるで烏のようであるというので、烏茶屋という綽名《あだな》を付けてしまったのである。色は黒いが世辞のいい女房は、半七を笑顔で迎えた。
「いらっしゃいまし。朝晩は急に冬らしくなりました」
「もう店を片付けるのじゃあねえか」
「いえ、まだでございます。どうぞ御ゆっくりお休み下さい」
女房の云う通り、秋と冬との変り目の十月にはいって、朝夕は急に寒くなった。殊に権田原《ごんだわら》の広い野原を近所に控えている此処らは、木枯らしと云いそうな西北の風が身にしみた。
「寒いのは時候で仕方もねえが、この頃はなんだか物騒だと云うじゃあねえか」と、半七は茶を飲みながら云った。
「本当でございます。なんだか忌《いや》な噂ばかり続くので、気味が悪くってなり
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