半七捕物帳
蟹のお角
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)落着《らくぢゃく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)上州|商人《あきんど》

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(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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     一

 団子坂の菊人形の話につづいて、半七老人は更に「蟹のお角」について語り出した。団子坂で外国人らの馬をぬすんだ一件は、馬丁平吉の召し捕りによってひと先ず落着《らくぢゃく》したが、その関係者の一人たる蟹のお角は早くも姿をくらまして、ゆくえ不明となった。したがって、この物語は前者の姉妹篇とでも云うべきものである。
「蟹のお角という女は、だんだん調べてみると札付《ふだつ》きの莫連《ばくれん》もので、蟹の彫りものは両腕ばかりでなく、両方の胸にも彫ってあるのです。つまり二匹の蟹の鋏が右と左の乳首を挟んでいるという図で、面白いといえば面白いが、これはなかなかの大仕事です。大体ほりものというものは背中へ彫るのが普通で、胸の方まで彫らないことになっている。背中に彫るのは我慢が出来るが、胸に彫るのは非常に痛いので、大抵の者には我慢が出来ない。大の男でも、胸の方は筋彫りだけで止めてしまうのが随分あります。その痛いのを辛抱して、女のくせに両方の乳のあたりに蟹の彫りものを仕上げたんですから、それを見ただけでも大抵の者はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とする。そこへ付け込んで相手を嚇しにかかるというわけで、こんな莫連おんなは男よりも始末がわるい。今はどうだか知りませんが、昔はこんな悪い女が幾らもいたもので、こんな奴は奉行所の白洲《しらす》へ出ても、さんざん不貞腐《ふてくさ》って係り役人を手古摺らせる。どうにも斯うにも仕様がないのでした。
 前にも申した通り、団子坂の一件は文久元年九月の出来事で、それは間もなく片付きましたが、お角だけが姿をかくしてしまいました。しかしお角は馬を盗んだ本人ではなく、唯その手伝いをして、一匹の馬をひき出したと云うだけですから、この一件だけで云えば罪の軽い方で、どこまでも其の跡を追って詮議するというほどの事もなかったのです。ほかにも巾着切りや強請《ゆすり》がありますが、これとても昔はあまり厳しく詮議しなかったのですから、そのまま無事に過ごしていれば、暗いところへ行かずに済んだかも知れませんが、こんな女は無事に世を送ることは出来ない。結局は何事かしでかして、いわゆる『お上《かみ》のお手数《てかず》をかける』と云うことになるのです。
 さてこれからがお話です。その翌年、即ち文久二年の夏から秋にかけて、麻疹《はしか》がたいへんに流行しました。いつぞや『かむろ蛇』のお話のときに、安政五年のコロリのことを申し上げましたが、それから四年目には麻疹の流行です。安政の大コロリ、文久の大麻疹、この二つが江戸末期における流行病の両大関で、実に江戸じゅうの人間をおびえさせました。これもその年の二月、長崎へ来た外国船からはやり出したもので、三月頃には京大坂に伝わり、それが東海道を越えて五、六月頃には江戸にはいって来ると、さあ大変、四年前の大コロリと負けず劣らずの大流行で、門《かど》並みにばたばた仆《たお》れるという始末、いや、まったく驚きました。
 コロリはもちろん外国船のお土産です。麻疹は昔からあったんですが、今度の大流行はやはり外国船のおみやげです。そんなわけで、黒船《くろふね》は悪い病いをはやらせるという噂が立って、江戸の人間はいよいよ異人を嫌うようになりました。中には異人が魔法を使うの、狐を使うの、鼠を放すのと、まことしやかに云い觸らす者もある。麻疹は六月の末からますます激しくなって、七月の七夕《たなばた》も盂蘭盆《うらぼん》もめちゃめちゃでした。なにしろ日本橋の上を通る葬礼《とむらい》の早桶が毎日二百も続いたというのですから、お察しください。
 それでも達者で生きている者は、中元の礼を見合わせるわけにも行きません。わたくしの子分の多吉という奴が、七月十一日のゆう方に、本所の番場まで中元の砂糖袋をさげて行って、その帰りに両国の方へむかって大川端をぶらぶら歩いて来る。こんにちとは違って、片側は大川、片側は武家屋敷ばかりで、日が暮れると往来の少ないところです。しかし日が暮れたといっても、まだ薄明るい、殊に多吉は商売柄、夜道をあるくのは馴れているので、平気で横網の河岸《かし》のあたりまで来かかると、向うから二人の男が来るのに逢いました。
 見ると、二人は早桶を差荷《さしにな》いでかついでいる。このごろの弔いは珍らしくもないのですが、たれも提灯も持っていない。まだ薄明るいとはいいながら、日暮れがたに早桶をかつぎ出すのに無提灯はおかしいと、多吉は摺れちがいながらに、その二人の顔を透かして視ると、なんと思ったか二人は俄かにうろたえて、かついでいる早桶を大川へざんぶりと投げ込んで、一目散《いちもくさん》に引っ返して逃げ出したのです。多吉もいささか面くらって、そのあとを追っかける元気もなく、唯ぼんやりと見送っていましたが、なにしろ早桶をほうり込んだのを、其のままにして置くわけには行かないので、取りあえず東両国の橋番小屋へ駈け着けて、舟を出してもらいました。
 おおかた此の辺であったかと思った所を探してみると、果たして新らしい早桶が引き揚げられました。その早桶の蓋をあけると、三十前後の男の死骸があらわれました。死骸は素っ裸で、どこにも疵の痕はありません。まず普通の病死らしく見えるのですが、唯ひとつ不思議なのは、そのひたいのまん中に『犬』という字が筆太《ふでぶと》に書いてあるのでした。いかに貧乏人でも古《ふる》浴衣《ゆかた》ぐらいは着せてやるのが当然であるのに、この死骸は素っ裸にされて、額《ひたい》には犬と書かれている。これには何かの仔細がありそうだと、多吉もかんがえました。
 第一、それが普通の病死で、どこかの寺へ送って行くならば、多吉の顔を見ておどろいて、早桶を大川へほうり込んで逃げ出すはずがありません。これには何かの秘密があるのは判り切っています。おそらく彼《か》の二人は多吉の顔を見識っていて、飛んだ奴に出逢ったと周章狼狽して、早桶を抛《ほう》り込んで逃げたのでしょう。平気で摺れ違ってしまえば、多吉の方では気が付かずに通り過ぎたかも知れなかったのですが、あんまり慌てたので却ってぼろ[#「ぼろ」に傍点]を出したのです。
 しかし多吉の方では、その二人の顔に見覚えが有るような、無いような、どうもはっきりした見当が付かないので困りました。どこの誰ということを思い出せば、すぐに探索に取りかかるのですが、それが思い出せないので手の着けようが無い。これにはわたくしも困りました。この死骸は型のごとく検視を受けて、近所の寺へ仮り埋めされたことは云うまでもありません。
 死人の額へ三角の紙をあてて、それに『シ』の字をかくのは珍らしくないが、額に『犬』という字をかくのは珍らしい。まあ、犬畜生のような奴だと云うのでは無いかと思われます。江戸時代のよし原では、心中した娼婦の死骸は裸にして葬ると云い伝えていますが、そのほかには死骸を裸にして葬るという話を聞きません。どう考えても、この死骸は因縁つきに相違ないのです。
 こう申せば、いずれこの事件に、蟹のお角が係り合っていると云うことは大抵お察しが付くでしょうが、どういうふうに係り合っているかと云うのがお話です。まあ、お聴きください」

     二

 それから二日目の七月十三日の夕方である。神田の半七の家では盂蘭盆の迎い火を焚いて、半七とお仙の夫婦が門口《かどぐち》へ出て拝んでいると、旅すがたで草履をはいた一人の男が、その迎い火の煙りのまえに立った。
「親分、御無沙汰を致しました」
「あら、三ちゃんかえ」と、お仙が先ず声をかけた。
「ええ、三五郎ですよ。お迎い火を焚いているところへ、飛んだお精霊《しょうりょう》さまが来ましたよ」と、彼は笑いながら会釈《えしゃく》した。
 彼は高輪の弥平という岡っ引の子分の三五郎で、江戸から出役《しゅつやく》の与力に付いて、二、三年前から横浜へ行っているのであった。それと見て、半七も笑った。
「やあ、三五郎か。久しぶりだ。まあ、はいれ」
 内へ通されて、客と主人は向かい合った。
「江戸じゃあ悪い麻疹がはやるそうですが、どなたもお変りが無くって結構です」と、三五郎は云った。
「まったく悪いものがはやるので、世間が不景気でいけねえ。横浜はどうだ」
「横浜でもちっとははやるそうですが、まあ大した事もないようですよ」
「そこで、今度は何しに出て来た。盆が来るので、お墓まいりか」と、半七は訊いた。
「そうでございます、と云いてえのですが、どうも札付きの親不孝で……」と、三五郎はあたまを掻きながら又笑った。「実は親分に無理を願いに出たのですが、どうでしょう、横浜まで伸《の》して下さいますめえか」
「横浜に何かあったのか」
「わっしらだけじゃ纒まりそうもねえ事が出来《しゅったい》したので……」
 彼は弥平の子分であるから、本来ならば高輪の親分のところへ荷を卸しそうなものであるが、江戸にいたときに半七の世話になった事もあり、現に去年の三月、半七が『異人の首』の捕物で横浜へ出張った時に、その手伝いをした関係もあるので、彼は高輪を通りぬけて神田までたずねて来たらしい。半七は団扇《うちわ》を使いながら訊いた。
「事によっちゃあ踏み出してもいいが、一体どんな筋だ」
「居留地の異人館の一件ですがね、去年の九月、男異人ふたりと女異人ひとりが江戸見物に出て来て、団子坂で殴られたり石をぶつけられたり、ひどい目に逢った事があるそうですね」
「むむ。おれもそれに係り合ったのだ。その異人がどうかしたのか」
「男異人のひとりはハリソン、ひとりはヘンリー、女はアグネスといって、ハリソンとアグネスは夫婦なんです」と、三五郎は説明した。「ところが、この八日の晩に、ハリソン夫婦が変死したので……。亭主のハリソンは自分の部屋の寝台の上に、喉《のど》を突かれて死んでいる。女房のアグネスは庭の木の蔭に倒れているというわけで、もちろん下手人《げしゅにん》は判りません。そこで、その探索を戸部の奉行所へ頼んで来たのですが、相手が異人だけに手を着けるのがむずかしい。異人の方じゃあ日本人が殺したことに決めているようですが、異人同士だって人殺しをしねえとは限らねえから、この探索はなかなか面倒ですよ」
「アグネスとかいう女房も殺されたのだな」
「そうです。だが、こいつは少しおかしい。なにかの獣《けもの》に喉と足を啖《く》われたらしい。最初に右の足を咬まれて倒れたところへ、また飛びついて喉を咬んだらしいと云うのですが……」
「おめえは、その死骸を見たのか」
「見ません。異人らは死骸を見せるのを嫌がって、誰にも見せねえ。ただ口の先で訴えるだけだから、どうも始末が悪い。ハリソンは近所に商館の店を持っていて、自分の家《うち》には女房のアグネスと富太郎というコックと、お歌という雇い女と、上下あわせて四人暮らしです。富太郎は江戸の本所生まれで、ことし二十六、お歌は程ヶ谷生まれで、ことし二十一、それだから誰の考えも同じことで、富太郎とお歌が予《かね》て出来合っていて、主人夫婦を殺して金を取ろうとしたのだろうと云うことになるのですが……」
「二人は駈け落ちでもしたのか」
「いいえ、ただ呆気《あっけ》に取られてまごまごしている処を、すぐに引き挙げられてしまいました。二人が果たして出来合っていたことは白状しましたが、そのほかの事はいっさい知らないと云い張っていて、いくら責められても落ちねえので、役人たちもこの二人には見切りを付けて、ほかを探ってみる事になったのです。そこで、わっしの考えるにゃあ、ハリソン夫婦を殺した奴はどうも異人仲間じゃあねえかと思うのですが、どんなものでしょう」

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