、先生も引っ返して、ようようのことで刃物をうばい取って、無理に家へ連れ込むと、お角は先生のふところから紙入れを引き摺り出して、それを持ったままで何処へか出て行ってしまいました。お角は始めから仕舞いまでひと言も口を利かないで、ただ先生を睨んでいるばかりでした。お角が出て行ったあとでも、先生はなんにも云いません。これも黙っているばかりですから、お角がなんで腹を立てたのか、どうして先生を殺そうとしたのか、その仔細はちっとも判りません。わたくしは煙《けむ》に巻かれてただぼんやりしていました」
意外の舞台面がだんだんに展開されるので、半七も三五郎も一種の興味を誘われた。
「お角はそれっきり姿を見せねえのか」と、半七は追いかけるように訊いた。
「それから五、六日は姿を見せません。先生も外へ出ませんでした」と、吾八は語り続けた。「この八日の夕がたに、わたくしが宿《しゅく》の銭湯へ行って帰って来ますと、門のなかに女の櫛が落ちていました。わたくしはそれを拾って、お角さんが来ましたかと訊きますと、先生は来ないと云いました。こんな櫛が落ちていましたと云って見せましたが、先生はやはり知らないと云うのです。どうもお角さんが来たらしいと思いましたが、わたくしは押して詮議もしませんでした。ところで、その翌日の九日のことです。わたくしは先生の使やら自分の買物やらで、朝から横浜へ出て行きました。ついでに友だちの家へ寄って、ひる飯の馳走などになりまして、七ツ(午後四時)頃に帰って来ましたが、そのときに異人館の人殺しの噂を聞きました。ハリソンさんの夫婦が誰かに殺されたと云うのです。それを先生に知らせようと思って、急いで帰って来ると、先生は見えません。先生も人殺しの噂を聞いて、わたくしと行き違いに出て行ったのかも知れないと思っていましたが、先生はそれっきり帰りません。念のために異人館へ聞き合わせに行きましたが、先生は九日以来一度も来たことは無いと云うのです。きょうでもう七日になりますが、先生のたよりは判りません。わたくしが横浜へ行った留守にお角さんが来て、一緒に江戸へ行ったのかと思いますが、それも確かには判りません」
「さっき江戸へ行ったと云ったのは嘘だね。確かな事じゃあねえのだね」
「恐れ入りました」
大川へ投げ込まれた早桶のぬしは確かに島田庄吉で、お角に誘い出されて何処かで殺されたに相違ないと半七は鑑定した。
「先生とお角が飲みに行くところは何処だ」
それは神奈川の台の江戸屋であると、吾八は答えた。三五郎を番人に残して、半七は松吉を連れてすぐに江戸屋へ行った。そこの帳場で聞きあわせると、島田とお角は九日の四ツ半(午前十一時)頃からここの二階へ来て、八ツ半(午後三時)頃まで差し向いで飲んでいたが、島田は正体もなく酔い潰れてしまったので、お角は駕籠を呼んで貰って、彼を扶《たす》け乗せて帰った。
いかに酔い潰れていると云っても、眼と鼻のあいだの近いところを駕籠に乗せて帰るのは少しおかしいと、半七はその駕籠屋を呼んで詮議すると、かれらはお角に頼まれて、正体のない島田を生麦《なまむぎ》の立場《たてば》まで送ったと云うのである。お角も駕籠に付いて行って、そこの立場茶屋へ島田を扶け入れ、相当の酒手をやって駕籠を戻した。駕籠屋の話によると、島田は前後不覚に酔っていたが、決して死んではいなかった。
死んでしまっては六郷の渡しを越えるのが面倒であるから、島田はまだ生きていたに相違ない。正体もなく酔わせて置いて、お角は自分の注文通りの場所へ運んで行ったのであろう。女の手ひとつで、それを仕遂げたか、途中から手伝いの者が加わったか、いずれにしても其の後の成り行きは想像するに難くない。しかも島田の額に犬という字をなぜ書いたか、それは依然として解き難い謎であった。
ハリソン夫婦を殺した下手人も、お角であることは大かた想像されたが、彼女がなぜ異人夫婦を殺すに至ったか、その仔細はやはり判らなかった。お角は八日の夜のうちにハリソン夫婦を殺し、併《あわ》せてその犬を殺し、その翌日は島田を誘い出して殺した。この筋道に間違いはあるまいと思われるのであるが、なぜ殺したか、どういう方法で殺したか、半七はその判断に苦しんだ。
「おい、松。ここでいつまで悩んでいても仕方がねえ、ともかくも写真屋へ帰ろう」
江戸屋を出て、本宿へさしかかると、半七は往来のまんなかで二匹の犬のたわむれているのを見た。
六
「調子に乗っておしゃべりをしていると、あんまり長くなりますから、もうここらで打ち留めにしましょう」と、半七老人は笑った。
「お角はどうなりました」と、私は訊いた。
「無論、召し捕りましたよ。お角は本所一つ目のお留という女髪結の二階に隠れていました。早桶をかつぎ出したのは、お留のせがれの国蔵
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