ざ江戸から出て来たのだ」と、半七は声をやわらげて諭《さと》すように云った。「おまえの先生はお角が殺したのだろう」
「お角です。きっとお角に相違ありません」
「おれもそうだろうと思っていた。こうなったら何もかも正直に云ってくれねえじゃあ困る。一体、先生とお角とはどうして心安くなったのだ。前からの知り合いかえ」
「前からの知り合いだと云っていますが、どうもそうじゃあ無いらしいのです」と、吾八は答えた。「去年の冬、わたくし共がここへ引っ越して来て間もなくの事です。先生は江戸へ写真を売りに行って、その帰り道でお角に逢って、一緒に連れ立って帰って来ました。それから当分は夫婦のように暮らしていて、正月になってからお角は又どこへか出て行きました。その後はどうしているのか知りませんが、十日目か半月目ぐらいに帰って来て、暫くいるかと思うと又どこへか出て行って、家《うち》の人のような、よその人のような工合いで、出たり這入ったりしていました。そのうちに、この四月の初めでした。ハリソンさんが本牧の写真を撮りに来て、そのついでにこの家へたずねて来ますと、丁度その時にお角も来ていて、ハリソンさんと顔を見合わせてお互いにびっくりした様子でした。ハリソンさんは去年の九月、江戸の団子坂で菊人形を見物しているときに、女の巾着切りに逢いました。それが間違いのもとで、ハリソンさん夫婦も連れのヘンリーさんも、大勢に追っかけられてひどい目に逢いました。そのときの巾着切りがお角であったそうで、思いがけない再会に、ハリソンさんも一旦はおどろきましたが、お角はどこまでも自分が取ったのではないと云い張ります。わたしの先生もハリソンさんを宥《なだ》めて、この女は自分の親類で、決して悪いことをする者ではないと、いろいろに弁解しましたので、ハリソンさんもようよう納得《なっとく》しました。尤も団子坂でお角をつかまえた時に、お角はなんにも持っていなかったと云いますから、確かに巾着切りだという証拠も無いわけです。それが縁になって、お角も先生と一緒に、ハリソンさんの家《うち》へ時々たずねて行くようになりました」
「先生は金儲けのためにお角を連れて行ったのか」
「さあ、それはどうだか判りませんが、その後お角はひとりで、ハリソンさんの家へ行ったこともあります。ハリソンさんと二人づれで、神奈川の台の料理茶屋へ遊びに行ったこともあるそうです」
お角の腕は半七の想像以上に凄いものであるらしかった。
五
「お角が蟹の写真を撮らせたのは、いつ頃のことだね」と、半七は訊いた。
「六月の初め……五、六日頃の事とおぼえています」と、吾八は説明した。「これは先生もお角もわたくしには隠しているので、詳しいことは判りませんが、なんでも二人が夕がたに酔って帰って来て、奥で話しているのを聞きますと、お角はそのとき裸の写真を撮らせたらしいのです。お角は酔ったまぎれに大きな声でこんなことを云っていました……。いくらあたしのような女でも、あんな恥かしい事をしたのは生まれて初めてだ。それもみんなお前さんの為じゃあないか。だが、あとになって考えてみると、あんな真似をして二十ドルは廉《やす》かった。五十ドルも取ってやればよかった……。それを宥《なだ》めているような先生の声は低いので、よく聴き取れませんでした。その晩はそれで済んで、その明くる日からはいつもの通りに仲好くしていましたが、お角はその二十ドルを先生に渡さないらしいのです。口ではお前さんの為だなぞと云いながら、先生には一文もやらないようでした」
「お角はほかに情夫《おとこ》でもあるのか」
「そんな疑いがある様子で、先生とお角とは仲がいいように見えながら、また時々には喧嘩なぞをする事もありました。お角は六月の十日《とおか》過ぎに家を出て、二十日《はつか》頃まで姿を見せませんでしたが、又ふらりと帰って来て、別に変ったこともなしに暮らしていましたが、その晦日《みそか》の朝です。先生とお角は二人連れで出かけましたから、多分ハリソンの家へ行ったのだろうと思っていますと、やはり夕がたに帰って来ましたが、その時にはわたくしも驚きました」
「何をおどろいたのだ」
「先生もすこし蒼い顔をしていましたが、お角は真っ蒼な顔をして、眼は血走って、髪をふり乱して、まるで、絵にかいた鬼女《きじょ》のような顔をして、黙ってはいって来たかと思うと、だしぬけに台所へかけ込んで、出刃庖丁を持ち出して来て、先生に切ってかかりました。先生は庭から表へ飛び出して、畑の方へ逃げて行くと、お角もつづいて追っかけて行きました。何がなんだか判りませんが、わたくしも驚いて駈け出しました。御承知の通り、近所に人家もなく、もう日暮れがたで往来もありません。わたくしは一生懸命に追い着いて、うしろからお角を抱きとめると
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