て、三五郎の顔を見識っているので、すぐに鍵を持って出た。彼は三人を案内して、ハリソンの家内を見せてくれたので、半七と松吉はめずらしそうに見てあるいた。ヘンリーは片言《かたこと》ながらも日本語を話すので、半七は参考のためにいろいろの質問を提出したが、双方の言葉がよく通じないので、要領を得ないことが多かった。
「奉行所から通辞《つうじ》を頼んで来ればよかったな」と、半七は自分の不注意を悔んだ。
 ハリソンの部屋で、半七は三脚のある機械を見つけた。彼はそれを指さして訊いた。
「これ、何ですか」
「それ、フォト……。おお、シャシンあります」と、ヘンリーは答えた。
「ははあ、写真か」と、半七はうなずいた。
 わが国における写真の歴史を今ここに詳しく説いている暇はないが、安政元年の春頃から我が国にも写真術の伝わっていた事をことわって置きたい。アメリカの船員が我が役人らを撮影し、あわせてその技術を教えたのが嚆矢《こうし》であると云う。その以来、写真術は横浜に広まって、江戸から修業にゆく者もあった。ことし文久二年は、それから八年の後であるから、横浜は勿論、江戸にも写真術をこころ得ている者が相当にあったことを知らなければならない。但しその時代の写真師は、特別の依頼に応じて撮影するか、或いは風景の写真を販売するかに留まって、明治以後の写真店のように一般の来客を相手に開業する者はなかったらしい。しかも世に写真というものがあり、江戸にも横浜にも写真師という者があることを、半七はかねて知っていたので、一種の好奇心を以って、その三脚の機械をしばらく眺めていると、ヘンリーは更に説明した。
「ハリソンさん、シャシン上手ありました。日本人、習いに来ました」
「その日本人はなんといいますか」と、半七は訊いた。
「シマダさん……。長崎の人あります」
「年は幾つですか」
「年、知りません。わかい人です。二十七……二十八……三十……」
 だんだん訊いてみると、そのシマダという男は長崎から横浜へ来て、写真術を研究しているが、日本人に習ったのでは十分の練習が出来ないというので、何かの伝手《つて》を求めてハリソンの家へ出入りするようになった。ハリソンは商人で、もとより専門家ではないが、写真道楽の腕自慢から、喜んでシマダにいろいろの技術を教えた。シマダも器用でよくおぼえた。その以上のことは、ヘンリーの日本語が不完全
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