ば調べようもあります」
二人は更に坂下の空地へまわると、秋草の乱れている中に五、六本の榛《はん》の木が立っていた。うしろは小笠原家の下屋敷で、一方には古い寺の生垣《いけがき》が見えた。一方には百姓の片手間に小商《こあきな》いをしているような小さい店が二、三軒つづいていた。それに囲まれた空地は五六百坪の草原に過ぎないで、芒のあいだに野菊などが白く咲いていた。五匹の馬をつないだのはかの榛の木に相違なく、そのあたりの草むらは随分踏み荒らされていた。
「馬を盗んで行った奴は素人《しろうと》でしょうね」と、幸次郎は云った。「商売人ならば日本馬か西洋馬か判る筈です。西洋馬なんぞ売りに行けばすぐに足が付くから、どうで盗むならば日本馬を二匹|牽《ひ》き出しそうなものだが、そこに気がつかねえのは素人で、手あたり次第に引っ張って行ったのでしょう」
「そうかな」と、半七は首をかしげた。
こんにちと違って、その時代における日本馬と西洋馬との相違は、誰が眼にも容易に鑑別される筈であった。第一に鞍《くら》といい、鐙《あぶみ》といい、手綱《たづな》といい、いっさいの馬具が相違しているのであるから、いかなる素人でも西洋馬と知らずに牽き去るはずがないと、彼は思った。
なにか手がかりになるような拾い物はないかと、一応はそこらを見まわしたが、何分にも草深いので探すことは出来なかった。ともかくも地つづきの百姓家へたずねて行って、その日の様子を訊いてみようと、二人は引っ返して歩き出そうとする時、幸次郎は小声であっ[#「あっ」に傍点]と云った。半七も振り向いた。
江戸は繁昌と云っても、その頃の江戸市内に空地はめずらしくなかった。三百坪や四百坪の草原は到る所にある。まして半分は田舎のような根津のあたりに、このくらいの草原を見るのは不思議でもなかったが、ここの空地は取り分けて草が深い。その草のあいだに、古い小さい祠《ほこら》のようなものが沈んで見えるのを、二人は最初から知っていたが、今や彼等を少しく驚かしたのは、祠のうしろから一人の女の姿があらわれ出でたことであった。
女は五十以上であるらしく、片手に小さい風呂敷包みと梓《あずさ》の弓を持ち、片手に市女笠《いちめがさ》を持っているのを見て、それが市子《いちこ》であることを半七らはすぐに覚った。市子は梓の弓を鳴らして、生霊《いきりょう》や死霊《しりょう》の口寄せをするもので、江戸時代の下流の人々には頗る信仰されていたのである。その市子が草にうもれた古祠のかげから突然にあらわれたのは、白昼でも何だか気味のいいものでは無かった。二人は黙って見ていると、女の方から声をかけた。
「もし、おまえさん方は何か探し物でもしていなさるのか」
「ええ、落とし物をしたので……」と、幸次郎はあいまいに答えた。
「おまえさん方の探す物は、ここらでは見付からないはずだ」と、老女は笑いながら云った。「もっと西の方角へ行かなければ……」
市子は占《うらな》い者や人相見ではない。その口から探し物の方角などを教えられても、恐らく信用する者はあるまい。まして半七らがその忠告をまじめに聴くはずはなかった。
「いや、ありがとう」と、幸次郎も笑いながら答えた。
それぎりで、二人は往来の方へあるき出すと、老女はそのあとを慕うように続いて来た。二人も無言、彼女も無言である。草をかき分けて往来へ出て、二人は左へむかって行くと、彼女もおなじく左へむかって来た。彼女はなかなか達者であるらしく、わずかに一間ほどの距離を置いて、男のようにすたすたと歩いて来る。それが自分たちのあとを尾《つ》けて来るようにも思われるので、幸次郎は振り返って訊いた。
「おめえはあすこに何をしていたのだ。あの祠《ほこら》を拝んでいたのかえ」
老女は黙っていた。
「あの祠には何が祭ってあるのだ」
「神様です」と、老女は答えた。
「神さまは判っているが、なんの神様だ」
「知りません」
「毎日拝みに来るのかえ」
「あの祠を拝みに行けというお告げがあったので、毎日拝みに来ます」
「おめえの家《うち》はどこだ」
「谷中《やなか》です」
「谷中はどの辺だ」
「三崎《さんさき》です」
「おめえは市子さんかえ」
「そうです」
「商売は繁昌するかえ」と、幸次郎は冗談のように訊いた。
「繁昌します」と、彼女はまじめに答えた。
そんなことを云っているうちに、半七らは百姓家の前に出た。それは片商売に荒物を売っている店で、十歳《とお》ばかりの男の児が店の前に立っていたが、半七らを見ると慌てて内へ逃げ込んだ。それに構わずに、二人は店へずっとはいると、三十二三の女房が奥の障子をあけて出た。彼女は先ず子供を叱った。
「なんだねえ、お前は……。お客さまが来たのに、逃げることがあるものか」
「狐使いだよ」と、男の児は表を指
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