さすと、女房も表をちょっと覗いて、ふたたび小声で子供をたしなめるように叱った。
 男の児は半七らを恐れたのではなく、そのあとから付いて来た市子を恐れているのであろう。その口から洩れた「狐使い」の一句が半七らの注意をひいて、二人は一度に表をみかえると、市子の老女は、彼等にうしろを見せて谷中の方角へたどって行った。
「あの市子は狐を使うのかえ」と、半七は訊いた。
「よくは知りませんが、そんな噂があります」と、女房は答えた。
「ここらへも始終来るのかえ」
「この頃は毎日のようにここへ来て、あの祠を拝んでいるので、ここらの者は気味悪がっています」
「あの空地の祠はなんだね」
「わたくしも子供の時のことですから、詳しい話は知りませんが、あの空地のところは臼井様とかいう小さいお旗本のお屋敷があったそうです」と、女房は説明した。「なにかの訳で殿様は切腹、お屋敷はお取り潰しになりまして、その以来二十年余もあの通りの空地になっています。その当座は祟りがあるとか云って、誰も空地へはいる者もなかったのですが、この頃は子供たちが平気で蜻蛉《とんぼ》やばった[#「ばった」に傍点]なぞを捕りに行くようになりました。祠はその臼井様のお屋敷内にあったもので、お屋敷がお取り払いになる時にもそのままに残ったのですから、一体なにを祭ってあるのか誰も知っている者もありません。御覧の通りに荒れ果ててしまって、自然に立ち腐れになるのでしょう。仮りにも神様と名のつくものを打っちゃって置くのも良くないから、なんとか手入れをしようかと云う人もあるのですが、障らぬ神に祟り無しで、うっかりした事をして何かの祟りでもあるといけないというので、まあ其の儘にしてあります。そこへ此の頃あの市子さんが毎日御参詣に来るのですが、狐を使うなぞという噂のある人だけに、なんだか気味が悪いと近所の者も云っています。子供たちまでその姿をみると、狐使いが来たと云って逃げるのです」
「市子の名は何というのだね」
「おころさんと云うそうです」
「おころ……。めずらしい名だな」
 半七らの詮議は市子や狐使いでない。そんなことは出さきの拾い物に過ぎないのであるから、その詮索はこのくらいに打ち切って、二人はかの異人の一件について話し出した。
「おとといは大騒ぎだったと云うじゃあねえか」と、半七は何げなく訊いた。
「ええ、たいへんな騒ぎでした」と、女房はうなずいた。「異人を殺してしまえと云って、大勢が追っかけて来るので、どうなる事かと思いました。それでもまあみんな無事に逃げたそうです」
「五人の馬はそこの空地《あきち》につないであったのかえ」
「そうです。そのうちの二匹がなくなったというのですが、どうしたのでしょうかね」
 異人の騒ぎで、ここらの者はいずれも家を空明《がらあ》きにして駈け出した。その留守のあいだに、二匹の馬が紛失したのであるから、誰が牽《ひ》き出したのか知っている者もない。別手組の侍が来ていろいろ詮議したが、誰も答えることが出来なかったと、女房は話した。
「年増のおんなが引っ張って行ったなんて云いますけれど、それもどうだか判りません」と、彼女は更に付け加えた。
「女が引っ張って行った……」と、半七は訊きかえした。「それを誰か見た者があるのかえ」
「いいえ、おれが確かに見たという者もないので……。誰が云い出すと無しに、そんな噂を聞きますが……。まさか女が……。ねえ、お前さん」
 女房はその噂を信じないように云った。

     三

 半七と幸次郎は荒物屋の店を出て、再びかの空地のまん中に立った。五六百坪のところに屋敷を構えていたのであるから、昔ここに住んでいたという臼井なにがしはよほどの小旗本であろう。武家屋敷のうちに祭られているのは、まず稲荷の祠が普通である。二人はその祠の正体を見とどけることにして、草の奥へ踏み込んで行った。
「ねえ、親分」と、幸次郎はあるきながら云った。「荒物屋のかみさんは気のねえように云っていましたが、おんなが馬を引っ張って行ったというのも、聞き流しにゃあ出来ねえようですね。もしやお角じゃあありますめえか」
「おれも何だかそんな気がしねえでもねえ。勿論、最初から企らんだことでもあるめえが、どさくさまぎれの出来ごころで馬を引っ張り出したかも知れねえ。しかし女ひとりで二匹の馬を牽《ひ》き出すのは、ちっと手際《てぎわ》がよ過ぎるようだ。相棒の巾着切りが手伝ったのだろう」
「そうでしょうね。なに、お角のありかが判れば、その相棒も自然に知れましょう」
 云ううちに、二人は古祠の前に行き着いた。祠は間口《まぐち》九尺に足りない小さい建物であるが、普請《ふしん》は相当に堅固に出来ていると見えて、二十年以上の雨風に晒されているにも拘らず、柱や扉などは案外にしっかりしているらしかった。扉をあけ
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