に異人の男ひとりは、左の頬を石に撃たれて血が流れ出した。
なにをいうにも多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》ですから、こうなったら逃げるよりほかはない。異人たちは真っ蒼になって坂下の方へ逃げました。別手組も一緒に逃げました。弥次馬は閧《とき》の声をあげて追って来る。事の仔細をよくも知らないで、相手が異人だから遣《や》っ付けてしまえと、無我夢中で加勢に出て来る者もある。敵はだんだんに殖えて来るばかりで、中には屋根に昇って瓦を投げる者がある。石ころでも竹切れでも、薪《まき》ざっぽうでも、手あたり次第に投げつけるのだから防ぎ切れない。異人たち三人も別手組もみな大小の疵を負って、血だらけになって逃げる。いや、飛んだ災難で気の毒でした。
この騒ぎを聞きつけて、もう一人の別手組が駈けて来たが、これもどうすることも出来ない。早く馬に乗って逃げろと注意したんですが、大勢の敵に隔てられて、馬をつないである空地《あきち》の方角へ行くことが出来ない。結局、馬は置き捨てにして、命からがら池《いけ》の端《はた》の辺まで逃げました。異人たちはここへ来る途中で何か買物なぞをして来たんですが、それもみんな抛《ほう》り出してしまい、帽子もステッキもなくなって、散らし髪の血だらけという姿、実に眼も当てられません。
追って来る連中ももう倦《あ》きたと見えて、途中からだんだんに減ってしまって、池の端まで来る頃には誰も付いて来ない。これで先ずほっ[#「ほっ」に傍点]としたんですが、さて困ったのは馬の一件で、そのままに捨てて帰るわけには行かない。といって、迂濶に引っ返すと又どんな目に逢うかも知れないので、異人たちは怖がって帰らない。女の異人などは顔の色をかえてふるえている。別手組二人で五匹の馬の始末はちっと困ると思ったが、ともかくも牽《ひ》いて来ることにして、二人の侍は元の空地へ戻ってみると、五匹のうちで二匹はゆくえ知れずになっている。この騒ぎにまぎれて、誰かが盗んで行ったに相違ない。一匹は女異人の乗っていた馬で、一匹は別手組の市川又太郎という人の馬でした。
今更ここで詮議をしていることも出来ないので、異人たちを三匹の馬に乗せて、ひと足先へ帰すことにして、別手組の二人はあとから徒歩《かち》で帰りました。これでまあ済んだようなものですが、相手が異人ですから事が面倒になりました。殊に三人ながらみんな顔や手に負傷しているので、東禅寺の方からむずかしい掛け合いを持ち込んで来ました。まさかに償金を出せとも云いませんが、その乱暴者を処分して、今後を戒めるようにしてくれと云うのです。乱暴者の処分と云ったところで、大勢の弥次馬ですから誰が何をしたのか判る筈はありません。ただ、捨て置かれないのは、どさくさまぎれの馬泥坊です。異人の馬ばかりでなく、日本の侍の馬まで盗んで行ったんですから、こいつは何とかして探し出さなければなりません。
八丁堀同心丹沢五郎治という人の屋敷へ呼ばれて、半七御苦労だが働いてくれという命令です。まあ、仕方がない。かしこまりましたと請け合って帰りました。かんがえて見ると、世の中にはいろいろの事件が絶えないものですね」
二
半七は主《おも》な子分らをあつめて評議の末に、皆それぞれの役割を決めた。九月二十六日の朝、自分は子分の幸次郎を連れて、ともかくも団子坂へ出てゆくと、菊人形は相変らず繁昌していた。別手組の一人が一緒に来てくれると、万事の調べに都合がいいと思ったのであるが、東禅寺警固の役目をおろそかには出来ないというので、現場へ同道することを断わられた。
しかし、別手組の人達から詳しい話を聞いて来たので、まず大抵の見当は付いていた。半七は歩きながら云った。
「馬どろぼうとは別物だろうが、異人の紙入れを取ったとか取らねえとかいう女、それもついでに調べて置く方がよさそうだな」
「そうですね」と、幸次郎もうなずいた。「いずれ女の巾着切《きんちゃっき》りでしょう。異人の紙入れを掏り取って、手早く相棒に渡してしまったに相違ありませんよ。江戸の巾着切りは手妻《てづま》があざやかだから、薄のろい毛唐人なんぞに判るものですか」
二人はそこらの休み茶屋へはいって、茶を飲みながらおとといの噂を訊くと、ここらの人達は皆よく知っていた。茶屋の女の話によると、その女は年ごろ二十八九の小粋な風俗で、ほかに連れも無いらしかった。彼女は騒動にまぎれて何処へか立ち去ったので、何者であるかを知る者はなかった。
女の人相などを詳しく訊きただして、二人はそこを出ると、幸次郎はすぐにささやいた。
「今の話で大抵わかりました。その女は蟹《かに》のお角《かく》と云って、両腕に蟹を一匹ずつ彫っている奴ですよ」
「そいつの巣はどこだ」
「どこと云って、巣を決めちゃあいねえようですが、お角と判れ
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