《はたち》の春に離縁ばなしが持ち出された。お福は一旦実家へ戻ったが、乳の出るのを幸いに、外神田の菊園へ乳母奉公に出て、あしかけ七年も勤めている。
 弥助の報告は大体こんなことであった。
「それから美濃屋の方を調べたか」と、半七は訊《き》いた。
「調べました。ところが、亭主の次郎吉という奴は、女房に逃げられるような道楽者だけに、玩具屋の店は三年ほど前に潰してしまって、今じゃあ田町を立ち退いて、聖天下《しょうでんした》の裏店《うらだな》にもぐり込んで、風車《かざぐるま》や蝶々売りをやっているそうです。年は二十九で、見かけは色の小白い、痩形の、小粋な野郎だということですが、わっしがたずねて行った時にゃあ、商売に出ていて留守でした」
「その後に女房は持たねえのか」
「ひとり者です」と、弥助は答えた。「だが、近所の者の噂を聞くと、ふた月に一度ぐらい、年増《としま》の女がこっそりたずねて来る。それが先《せん》の女房のお福じゃあねえかと云うのです。なにしろ、その女が来ると、そのあと当分は次郎吉の野郎、酒なんぞ飲んでぶらぶらしていると云いますから、その女が小遣い銭でも運んで来るに相違ありませんよ」
「いい株だな。おめえ達も羨ましいだろう」と、半七は笑った。「その女は恐らく先の女房だろうな。親たちが不承知で無理に引き分けられた。女にゃあまだ未練があるので、奉公さきから抜け出して時々逢いに来る。しかしふた月に一度ぐらいはなかなか辛抱強い。お福という女も馬鹿じゃあねえと見えるな」
「そうでしょうね」
「そこで、その次郎吉という奴だが……。近所の評判はどうだ」
「褒められてもいねえが、悪くも云われねえ。まあ中途半端のところらしいようですね」
「中途半端じゃあ困るな。白雲堂にでもうらなって貰わねえじゃあ判らねえ」
 半七は暫く思案していた。自分の膝の前に置いてある橙の「龍」の字が白雲堂の筆であるとすれば、けさ何者かが投げ込んで行った「武士の誓言」の一通も、同じ人の筆であるらしい。果たして同筆であれば、白雲堂はこの事件に係り合いがあるものと見做《みな》さなければならない。白雲堂の近所には次郎吉が住んでいる。その次郎吉の処へは菊園の乳母が通って来る。この三人のあいだには何かの糸が繋がっていて、菊園の子供のゆくえ不明事件が作り出されたのではあるまいか。他人《ひと》の秘蔵っ子をかどわかして、その親を
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