忌《いや》なことがある」と、半七は又かんがえていた。「だが、庄太。やっぱり人頼みじゃあいけねえ。自分が足を運んで来たお蔭で、飛んだ掘り出し物をしたらしい」
「へえ、そうですかね」
 訳を知らない庄太は、ただ感心したように首をかしげていると、隣りでは壁を崩すような音ががらがらと聞こえて、それと同時に弥助が転《ころ》げるように駈け込んで来た。
「やあ、ひどい、ひどい。飛んだところへほこりを浴びに来た」
 彼は手拭で顔や着物を払いながら、半七を見て驚いたように会釈《えしゃく》した。
「親分、もう先き廻りをしたのですか」
「江戸っ子は気が早え」と、半七は笑った。「そこで、どうだ。根岸の方は……」
「わっしのことを気が長げえと云うが、その代りに仕事は念入りだ。まあ、聴いておくんなせえ」
「一軒家じゃあねえ、大きな声をするな」
 半七に注意されて、彼は小声で話し出した。

     三

 根岸が下谷区に編入されたのは明治以後のことで、その以前は豊島郡金杉村の一部である。根岸といえば鶯の名所のようにも思われ、いわゆる「同じ垣根の幾曲り」の別荘地を忍ばせるのであるが、根岸が風雅の里として栄えたのは、文化文政時代から天保初年が尤も盛りで、水野閣老の天保改革の際に、奢侈《しゃし》を矯正する趣意から武家町人らの百姓地に住むことが禁止された。自宅のほかに「寮」すなわち別荘、控え家のたぐいをみだりに設けるのは贅沢であるというのであった。
 それがために、くれ竹の根岸の里も俄かにさびれた。春来れば、鶯は昔ながらにさえずりながら、それに耳を傾ける風流人が遠ざかってしまった。後にはその禁令も次第にゆるんで、江戸末期には再び昔の根岸のすがたを見るようになったが、それでも文化文政の春を再現することは出来なかった。
 魚八は根岸繁昌の時代からここに住んでいる魚屋《さかなや》で、一時は相当に店を張っていたが、土地がさびれると共に店もさびれた。それでも代々の土地を動かずに、小さいながらも商売をつづけていた。前にも云う通り、亭主は八兵衛、女房はお政、せがれは佐吉、この親子三人が先ず無事に暮らしている。佐吉はことし十九で、利口な若い者である。娘のお福は十八の年に浅草|田町《たまち》の美濃屋という玩具屋《おもちゃや》へ縁付いたが、亭主の次郎吉が道楽者であるために、当人よりも親の八兵衛夫婦が見切りをつけて、二十歳
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